中島三郎助父子最後之地
ナカジマサブロウスケサイゴノチ
(裏)
昭和四十九年五月十六日
記念碑建立期成会
大釜仙蔵
藤野藤太郎
相沢勝三郎
木村清満
■観光説明板
中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった。
維新後、明治元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。箱館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた。
新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残した。
昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた。
函館市
THE PLACE WHERE NAKAJI MA SABUROSUKE AND HIS SONS DIED
Nakajjma Saburosuke,an officer under Uraga Bugyo,entered the Shogunate naval training center in Nagasaki as a first student in 1855.Three years later,he became an instructor at the warship training center.
In October 1868,Saburosuke came to Hokkaido with 8 warships,following Enomoto Takeaki.
During the Hakodate Battle,Saburosuke was sent to the garrison of Chiyogaoka,an advance base of Goryokaku,with colleagnes of Uraga Bugyo’s office as commander.
After dominating Hakodate,the Imperial Forces demamded that they surrender,but Nakajima rejected these orders and kept fighting.On May 16,he died with his eldest son Kotaro and his second son Eijiro.Right before his death he wrote the following poem,”I’m calling to a cuckoo,I’m also so sad that I feel like coughing up blood.”
In 1931,the district where Chiyogaoka camp was located,was named Nakajimacho-town,in commemoration of Nakajima.
CITY OF HAKODATE
■参考文献
「いしぶみ」(函館市役所土木部公園緑地課 1983年)
@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は@{浦賀奉行(うらがぶぎょう)}[{今(いま)}の{神奈川県(かながわけん)}の{役所(やくしょ)}で{働(はたら)}いていた{人(ひと)}]で{働(はたら)}いていました。しかし、@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は1855{年(ねん)}に@{幕府(ばくふ)}[1603から1868{年(ねん)}の{政府(せいふ)}]が{新(あたら)}しく{作(つく)}った@{長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)}[{長崎県(ながさきけん)}にある{海兵(かいへい)}が{勉強(べんきょう)}するところ]に{入学(にゅうがく)}して、3{年後(ねんご)}には@{軍隊(ぐんたい)}[{戦争(せんそう)}をするための{集団(しゅうだん)}]の@{訓練所(くんれんじょ)}[{技術(ぎじゅつ)}を{身(み)}に{付(つ)}ける{場所(ばしょ)}]の{先生(せんせい)}になりました。1868{年(ねん)}10{月(がつ)}、@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は@{榎本武揚(えのもとたけあき)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と{一緒(いっしょ)}に8つの{軍(ぐん)}の{船(ふね)}で@{北海道(ほっかいどう)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]に{来(き)}ました。@{箱館戦争(はこだてせんそう)}[1868から1869{年(ねん)}に{函館(はこだて)}で{起(お)}こった{戦(たたか)}い]では@{五稜郭(ごりょうかく)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]の{前(まえ)}にある{場所(ばしょ)}の@{千代ヶ岡陣屋(ちよがおかじんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{戦(たたか)}う{人(ひと)}が{泊(と)}まったり、{政治(せいじ)}をしたりする{重要(じゅうよう)}な{場所(ばしょ)}、{今(いま)}の{中島町(なかじまちょう)}]の@{隊長(たいちょう)}[グループで1{番(ばん)}{偉(えら)}い{人(ひと)}]として、{昔(むかし)}の{仲間(なかま)}と@{陣屋(じんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{戦(たたか)}う{人(ひと)}が{泊(と)}まったり、{政治(せいじ)}をしたりする{重要(じゅうよう)}な{場所(ばしょ)}]を{守(まも)}っていました。@{新政府軍(しんせいふぐん)}[{日本(にほん)}の{新(あたら)}しい{政府(せいふ)}の{人(ひと)}たち]が@{箱館(はこだて)}[{函館(はこだて)}の{古(ふる)}い{書(か)}き{方(かた)}]を{力(ちから)}で{手(て)}に{入(い)}れると、@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]たちに{負(ま)}けを{認(みと)}めるように{言(い)}いました。しかし、@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]はそれを{受(う)}け{入(い)}れずに{戦(たたか)}い{続(つづ)}けて、5{月(がつ)}16{日(にち)}に@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の{息子(むすこ)}の@{恒太朗(こうたろう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]、@{英次郎(えいじろう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と{一緒(いっしょ)}に{亡(な)}くなりました。@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は{亡(な)}くなる{前(まえ)}に、「ほととぎす われも{血(ち)}を{吐(は)}く {思(おも)}い{哉(かな)}」という@{俳句(はいく)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{歌(うた)}]を{残(のこ)}しました。1931{年(ねん)}に@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の{親子(おやこ)}を{思(おも)}い{出(で)}として{残(のこ)}して、@{千代ヶ岡陣屋(ちよがおかじんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{戦(たたか)}う{人(ひと)}が{泊(と)}まったり、{政治(せいじ)}をしたりする{重要(じゅうよう)}な{場所(ばしょ)}、{今(いま)}の{中島町(なかじまちょう)}]があったところに{中島町(なかじまちょう)}と{名前(なまえ)}を{付(つ)}けました。