高橋掬太郎歌碑

タカハシキクタロウカヒ

hako130■碑文

(表)
掬太郎

酒は涙か
溜息か
心のうさの
捨てどころ

■観光説明板

高橋掬太郎は、大正11(1922)年函館日日新聞社に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら、詩や小説、脚本などを手がけていた。
昭和6年「酒は涙か溜息か…」の歌詞をコロムビアレコードに投稿して採用され、古賀政男が作曲、藤山一郎が歌って大ヒットした。昭和8年、コロムビアレコード専属作詞家となり、のちにキングレコードに移り、昭和45年4月、69歳で他界するまでに約3千の作詩をしている。
作品には「啼くな小鳩よ」「並木の雨」「ここに幸あり」「高原の宿」「雨に咲く花」など数々の名作がある。
この碑は、函館で生まれた「酒は涙か溜息か…」を永く記念するため、昭和36年有志により同町内にあった温泉敷地内に建てられたが、平成10年4月に現在の場所に移設されたもので、碑文は掬太郎の真筆である。

函館市

POEM MONUMENT OF KIKUTARO TAKAHASHI

Kikutaro Takahashi joined the Hakodate Daily Newspaper Co,in 1922.He wrote poems,novels and plays,while working as the chief of both the local news department and the art and science department.
In 1931,he wrote the words of the song,”Sake Doth Move Us to Tears or Sighs…” for Columbia Records Co and it was accepter.The music was composed by Koga Masao and Fujiyama Ichiro and it became a big hit.In 1933,he became a songwriter under an exclusive contract with Columbia Records Co.Later he changed to King Records Co and he wrote about 3,000 lyrics until he died in April,1970,at the age of 69.
He wrote many popular songs such as “Don’t Coo Little Dove”,”Rain on the Avenue”,”Here is My Happiness”,”An Inn on the Heights”,and “Flowers Blooming in the Rain”,among others.
This monument was built by his fans at Horaicho hot spring in 1961,to commemorate the song “Sake Doth Move Us to Tears or Sighs…” which was written in Hakodate.It was moved to the present site in April,1998.The epigraph was written by Takahashi himself.

CITY OF HAKODATE

■追加解説

高橋掬太郎が函館日日新聞として務めていた頃の銀座通り界隅は函館の歓楽街の中心であった。旧蓬莱町には東見番、町見番、中央見番の三見番が、その四囲には料亭が軒を並べ、銀座通りはバーやカフェーが密集地しており、夜の帷がおりると、ネオンの色が美しく夜空を染めていた。
数年後、函館日日新聞社を退社して上京、作詞者として生活することになった。掬太郎の「酒は涙か」の歌詞は、幸い当時の新進作曲家古賀政男の認められ、その曲を得て世に発表されると、レコードは目覚しい売上げを記録して一世を風靡した。
このデビュー曲を契機にして作詞に専念した結果、推しも推されもせぬ一流の作詞家となって活躍したが、「酒か涙か」のヒントは新聞記者時代に函館の銀座界遇のネオン街で得たもの、と伝えられている。
1934年(昭和9年)3月、函館に未曾有の大火があり、蓬莱町も銀座通りも一望の焼野原となってしまった。災害後復旧はしたものの街の様相は全く一変してしまった。大火の影響で歓楽街は、東の松風町に移っていった。
1961年(昭和36年)9月21日の除幕式には、掬太郎本人を招いて除幕式が挙行された。

■参考文献

「函館市史資料集」第46集(函館市史編纂委員会)

■やさしい日本語

高橋掬太郎(たかはしきくたろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は、1922 年(ねん)に 函館日日新聞社(はこだてにちにちしんぶん)[ 函館(はこだて)の 新聞(しんぶん)を 作(つく)る 会社(かいしゃ)]に 入(はい)りました。 社会部(しゃかいぶ)[ 新聞(しんぶん)を 作(つく)る 会社(かいしゃ)の 中(なか)の 集(あつ)まり]と 学芸部(がくげいぶ)[ 新聞(しんぶん)を 作(つく)る 会社(かいしゃ)の 中(なか)の 集(あつ)まり]の 部長(ぶちょう)になりました。 詩(し)や 小説(しょうせつ)、 脚本(きゃくほん)[ 物語(ものがたり)で 起(お)こることや 言(い)うことを 書(か)いたもの]も 書(か)きました。
1931 年(ねん)に、コロムビアレコード[ 曲(きょく)を 売(う)る 会社(かいしゃ)]が「 酒(さけ)は 涙(なみだ)か 溜息(ためいき)か 」という 掬太郎(きくたろう)の 歌詞(かし)[ 歌(うた)の 言葉(ことば)]を 選(えら)びました。それを 古賀政男(こがまさお)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 曲(きょく)にして、 藤山一郎(ふじやまいちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 歌(うた)って、 人気(にんき)になりました。1933 年(ねん)にコロムビアレコードだけで 歌詞(かし)を 作(つく)る 人(ひと)になりました。その 後(あと)、キングレコード[ 曲(きょく)を 売(う)る 会社(かいしゃ)]に 移(うつ)りました。1970 年(ねん)4 月(がつ)に69 歳(さい)で 亡(な)くなりました。 生(い)きている 間(あいだ)、 約(やく)3,000 個(こ)も 歌詞(かし)を 作(つく)りました。
作(つく)ったものには、「 啼(な)くな 小鳩(こばと)よ」「 並木(なみき)の 雨(あめ)」「ここに 幸(さち)あり」「 高原(こうげん)の 宿(やど)」「 雨(あめ)に 咲(さ)く 花(はな)」などがあります。 素晴(すば)らしい 作品(さくひん)がたくさんあります。
この 碑(ひ)[ 文字(もじ)が 書(か)いてある 石(いし)]は、 函館(はこだて)でできた「 酒(さけ)は 涙(なみだ)か 溜息(ためいき)か 」を 長(なが)い 間(あいだ) 残(のこ)したいと 思(おも)った 人(ひと)たちが1961 年(ねん)に 作(つく)りました。 最初(さいしょ)は、 同(おな)じ 町(まち)の 温泉(おんせん)[ 人(ひと)が 温(あたた)かい 水(みず)に 入(はい)る 場所(ばしょ)]の 土地(とち)の 中(なか)に 作(つく)りました。1998 年(ねん)4 月(がつ)に 今(いま)の 場所(ばしょ)に 移(うつ)りました。この 碑(ひ)[ 文字(もじ)が 書(か)いてある 石(いし)]の 文章(ぶんしょう)は、 高橋掬太郎(たかはしきくたろう)が 書(か)いた 字(じ)です。

大エリア 函館市
小エリア 西部地区
所在地北海道函館市宝来町7(グリーンベルト内)
制作時代
主題時代
カテゴリ やさしい日本語(観光), 碑・像, 美術・芸能