宮崎郁雨の歌碑
ミヤザキイクウノカヒ
郁雨
蹣跚(まんさん)と
夜道をたどる
淋しさよ
酒はひとりし
飲むものならず
■観光説明板
宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885)年に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に図書裡会が建立した。
函館市
POEM MONUMENT OF MIYAZAKI IKUU
Miyazaki Ikuu (real name Miyazaki Daishiro) was born in Niigata Prefecture in 1885.After his birth,his family moved to Hakodate and his father started a MISO (soy bean paste) factory.Ikuu became a staff member of the literary group “Bokushukusha” which was formed in 1906.Since Ishikawa Takuboku came to Hakodate in 1907,Ikuu kindly continued to support Takuboku both financially and spiritually.In 1909,Ikuu married Fukiko,who was a sister of Takuboku’s wife Setsuko.
Even after he succeeded his farther’s business he kept on writing poems and passed away in 1962.The poem on this monument is included in the second chapter “Jimon Jito”,literally meaning “Ask yourself and then answer yourself”,in “Ikuu Kashu” (the collection of Ikuu’s poem) published after his death.This monument was built by Toshorikai (The association of book lovers) in 1968.
CITY OF HAKODATE
■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)
@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{本当(ほんとう)}の{名前(なまえ)}は{大四郎(だいしろう)}]は1885{年(ねん)}に@{新潟県(にいがたけん)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]で{生(う)}まれました。その{後(あと)}、{家族(かぞく)}で@{函館(はこだて)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]に{来(き)}ました。お{父(とう)}さんは@{味噌(みそ)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{大豆(だいず)}からできた{食(た)}べ{物(もの)}]を{作(つく)}って{売(う)}る{仕事(しごと)}をしていました。1906{年(ねん)}に@{文芸結社苜蓿社(ぶんげいけっしゃぼくしゅくしゃ)}[{同(おな)}じ{目的(もくてき)}を{持(も)}って{文学(ぶんがく)}を{書(か)}く{人達(ひとたち)}の{集(あつ)}まり]ができると、そこに{入(はい)}りました。1907{年(ねん)}に@{石川啄木(いしかわたくぼく)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{日本(にほん)}の{有名(ゆうめい)}な{詩(し)}を{作(つく)}る{人(ひと)}]が@{函館(はこだて)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]に{来(き)}ました。そして@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{本当(ほんとう)}の{名前(なまえ)}は{大四郎(だいしろう)}]は@{石川啄木(いしかわたくぼく)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{日本(にほん)}の{有名(ゆうめい)}な{詩(し)}を{作(つく)}る{人(ひと)}]の{心(こころ)}と{生活(せいかつ)}を{助(たす)}けました。1942{年(ねん)}に@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{本当(ほんとう)}の{名前(なまえ)}は{大四郎(だいしろう)}]は@{石川啄木(いしかわたくぼく)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{日本(にほん)}の{有名(ゆうめい)}な{詩(し)}を{作(つく)}る{人(ひと)}]の{妻(つま)}@{節子(せつこ)}[ {人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の{妹(いもうと)}@ふき{子(こ)}[ {人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と{結婚(けっこん)}しました。@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{本当(ほんとう)}の{名前(なまえ)}は{大四郎(だいしろう)}]は{家(いえ)}の{仕事(しごと)}をもらいました。@{短歌(たんか)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{歌(うた)}の{種類(しゅるい)}]をつくるのも{続(つづ)}けました。1962{年(ねん)}に@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{本当(ほんとう)}の{名前(なまえ)}は{大四郎(だいしろう)}]は{亡(な)}くなりました。この{歌(うた)}は@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{本当(ほんとう)}の{名前(なまえ)}は{大四郎(だいしろう)}]が{亡(な)}くなった{後(あと)}に{売(う)}っている「@{郁雨歌集(いくうかしゅう)}[ {宮崎郁雨(みやざきいくう)}の{短歌(たんか)} ({日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{歌(うた)}の{種類(しゅるい)})を{集(あつ)}めた{本(ほん)}]」の{中(なか)}の「@{自問自答(じもんじとう)}[{作品(さくひん)}の{名前(なまえ)}]」に{書(か)}いてあります。1968{年(ねん)}に@{図書裡会(としょりかい)}[ {函館(はこだて)}の{文化(ぶんか)}を{伝(つた)}える{集(あつ)}まり]が@{歌碑(かひ)}[ {短歌(たんか)} ({日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{歌(うた)}の{種類(しゅるい)})が{書(か)}いてある{石(いし)}]を{建(た)}てました。