石川啄木一族の墓
イシカワタクボクイチゾクノハカ
■碑文
(表)
啄木一族墓
啄木
東海の
小島の磯の
白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
(裏)
これは嘘いつはりもなく正直にいうのだ
「大丈夫だよしよしおれは死ぬ時は函館
へ行って死ぬ」その時斯う思ったよ何
処で死ぬかは元より解った事ではないが
僕は矢張死ぬ時は函館で死にたいよう
に思う君 僕はどうしても僕の思想が時代
より一歩進んでいるという自惚をこのご
ろ捨てる事が出来ない
明治三十四年十二月二十一日
東京本郷弓町二の十八 石川啄木
郁雨兄
■観光説明板
明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月後の後を追うかのようにこの世を去った。
大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。
函館市
THE GRAVE OF ISHIKAWA TAKUBOKU AND HIS FAMILY
Ishikawa Takuboku,a brilliant and renowned poet of the Meijj era had close connections with Hakodate.Takuboku lived here only a short time from May to September in 1907.During his stay he lived together with his family,and spent a cozy life with the warm support of a literary group called “Bokushukusha.”
Takuboku liked the people and atmosphere of Hakodate so much that he once remarked,”I’d like to die here in Hakodate…” However,on April 1912 his life of 27 years came to a close in Tokyo,suffering from a disease.In accordance to his wife,Setsuko’s wish,Takuboku’s ashes were brought here in March 1913.Then in May,Setsuko passed away only a month or so later,as if to follow her late husband.
In August 1926 this grave was erected by both Miyazaki Ikuu,his brother-in-law,who was also a poet,and Okada Kenzo,the staff of Hakodate Library then.Takuboku and his wife,three beloved children and parents are all lying in eternal sleep here,listening to sea roars of the Tsugaru Straits.
CITY OF HAKODATE
■解説
石川啄木(本名:一(はじめ) 1886年~1912年)は、郷里を出て各地を放浪したが、「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した。
啄木が、函館に住んだのは明治40年(1907年)5月(5日)から9月までの短い期間だったが、この間の生活は文芸結社、苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人らに温かく迎えられ、離散していた家族も呼び寄せての、明るく楽しいものであった。当初は函館商業会議所の臨時雇として働くかたわら、苜蓿社の文芸雑誌「紅苜蓿」(ベニウマゴヤシ、通称ベニマゴヤシ)の編集をしていたが、6月には弥生小学校の代用教員として2度目の教員生活を送り、さらに8月17日からは函館日日新聞の記者を務めた。
しかし、幸せな生活も長くは続かず、明治40年8月25日に発生した大火で市街地が大きな被害を受け、函館日日新聞社も罹災、啄木は失意を胸に9月13日、札幌へと移っていった。
その後、小樽、釧路を経て、再び上京するが、明治45年4月に病魔におかされ、27歳の生涯を閉じた。啄木の遺骨は妻節子の希望で、大正2年(1913年)3月、函館に移されたが、彼女もまた同年5月に後を追うかのようにこの世を去った。
この墓碑は、大正15年(1926年)8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で建てられたもので、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。
裏面の一文は、明治43年(1910年)12月、啄木が郁雨宛てに送った私信の一節である。
■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第26集・第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年)、「函館の史蹟と名勝」、「北海道の歌碑総覧」
@{明治時代(めいじじだい)}[{日本(にほん)}の{年号(ねんごう)}の{一(ひと)}つ1868{年(ねん)}~1912{年(ねん)}]の@{歌人(かじん)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{詩(し)}を{作(つく)}る{人(ひと)}]の{世界(せかい)}で{有名(ゆうめい)}だった@{石川啄木(いしかわたくぼく)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と{函館(はこだて)}の@{縁(えん)}[つながり]は{深(ふか)}いです。{石川啄木(いしかわたくぼく)}が{函館(はこだて)}に{住(す)}んだのは1907{年(ねん)}5{月(がつ)}から9{月(がつ)}までの{短(みじか)}い{時間(じかん)}でしたが、この{間(あいだ)}の{生活(せいかつ)}は@{昔蓿社(ぼくしゅくしゃ)}[{人々(ひとびと)}が{文芸(ぶんげい)}のためにつくった{団体(だんたい)}]の{人(ひと)}たちの{強(つよ)}い{友情(ゆうじょう)}があって、{別(わか)}れた{家族(かぞく)}が{集(あつ)}まって、{明(あか)}るく{楽(たの)}しい{生活(せいかつ)}でした。「{自分(じぶん)}が{死(し)}ぬ{時(とき)}は{函館(はこだて)}で…」と{言(い)}うほど、{石川啄木(いしかわたくぼく)}は{函館(はこだて)}の{人(ひと)}と@{風物(ふうぶつ)}[その{季節(きせつ)}や{土地(とち)}にしかない{景色(けしき)}や{物(もの)}]を{愛(あい)}していましたが、1912{年(ねん)}4{月(がつ)}、27{歳(さい)}の{時(とき)}に、@{東京(とうきょう)}[{日本(にほん)}で{一番(いちばん)}{大(おお)}きい{都市(とし)}]で{病気(びょうき)}で{亡(な)}くなりました。1913{年(ねん)}3{月(がつ)}に{石川啄木(いしかわたくぼく)}の{骨(ほね)}は、{妻(つま)}の@{節子(せつこ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の{希望(きぼう)}で{函館(はこだて)}に{移(うつ)}りました。その{後(あと)}、{節子(せつこ)}も1913{年(ねん)}5{月(がつ)}に{夫(おっと)}の{後(あと)}を{追(お)}いかけるように{亡(な)}くなりました。1926{年(ねん)}8{月(がつ)}に@{義弟(ぎてい)}[{妻(つま)}({節子(せつこ)})の{弟(おとうと)}]の@{歌人(かじん)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{詩(し)}を{作(つく)}る{人(ひと)}]@{宮崎郁雨(みやざきいくう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]や、{後(のち)}の{函館(はこだて)}@{図書館長(としょかんちょう)}[{図書館(としょかん)}の{中(なか)}で{一番(いちばん)}{偉(えら)}い{人(ひと)}]の@{岡田健蔵(おかだけんぞう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{今(いま)}の{場所(ばしょ)}に@{墓碑(ぼひ)}[{墓(はか)}の{中(なか)}の{人(ひと)}を{説明(せつめい)}した{石(いし)}]を{建(た)}てました。{石川啄木(いしかわたくぼく)}と{妻(つま)}の{節子(せつこ)}、3{人(にん)}の{子(こ)}どもや{両親(りょうしん)}などが、@{津軽海峡(つがるかいきょう)}[{北海道(ほっかいどう)}の{南(みなみ)}と{青森県(あおもりけん)}の{間(あいだ)}にある{海(うみ)}]の{海(うみ)}の{音(おと)}を{聞(き)}きながら{長(なが)}い{間(あいだ)}{墓(はか)}の{中(なか)}にいます。