碧血碑
ヘッケツヒ
この「{碧血碑(へっけつひ)}」は、@{箱館戦争(はこだてせんそう)}[{函館(はこだて)}で{起(お)}きた{戦争(せんそう)}]で{亡(な)}くなった{人々(ひとびと)}を@{追悼(ついとう)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}を{思(おも)}い{出(だ)}して、{尊敬(そんけい)}すること]し、{彼(かれ)}らの@{霊(れい)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}のこと]を@{祀(まつ)}っている[{亡(な)}くなった{人(ひと)}を{大切(たいせつ)}に{思(おも)}うこと]{場所(ばしょ)}です。{戦争(せんそう)}で{亡(な)}くなった{人々(ひとびと)}の{中(なか)}には、@{土方歳三(ひじかたとしぞう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]や@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]{親子(おやこ)}などがいました。{彼(かれ)}らは@{北関東(きたかんとう)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]、@{東北地方(とうほくちほう)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]、そして@{箱館(はこだて)} [{昔(むかし)}の{函館(はこだて)}]で{戦(たたか)}った@{旧幕府脱走軍(きゅうばくふだっそうぐん)}[{昔(むかし)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}の{人(ひと)}で、{函館(はこだて)}に{逃(に)}げてきた{人(ひと)}たち]の人たちです。この@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いている{石(いし)}]は、1875{年(ねん)}にできました。@{大鳥圭介(おおとりけいすけ)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]や@{榎本武揚(えのもとたけあき)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{碧血碑(へっけつひ)}を{作(つく)}るのを{手伝(てつだ)}って、@{東京(とうきょう)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]から{船(ふね)}で{碧血碑(へっけつひ)}を{運(はこ)}びました。@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いている{石(いし)}]の{文字(もじ)}は、その{時代(じだい)}に@{陸軍奉行(りくぐんぶぎょう)}[{日本(にほん)}の{軍隊(ぐんたい)}で{仕事(しごと)}をした{人(ひと)}]だった@{大鳥圭介(おおとりけいすけ)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{書(か)}きました。@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いている{石(いし)}]の{台(だい)}の{裏側(うらがわ)}には、どうして@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いている{石(いし)}]を{建(た)}てたかを{説明(せつめい)}する16{文字(もじ)}の{漢字(かんじ)}が{書(か)}いてあります。しかし、その{書(か)}き{方(かた)}からは、@{旧幕府脱走軍(きゅうばくふだっそうぐん)}[{昔(むかし)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}の{人(ひと)}で、{函館(はこだて)}に{逃(に)}げてきた{人(ひと)}たち]の@{霊(れい)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}のこと]を{公開(こうかい)}して@{祀(まつ)}る[{亡(な)}くなった{人(ひと)}を{大切(たいせつ)}に{思(おも)}うこと]ことが{難(むずか)}しかったことがわかります。ちなみに、「{碧血(へっけつ)}」という{言葉(ことば)}は、@「{義(ぎ)}に{殉(じゅん)}じて{流(なが)}した{武人(ぶじん)}の{血(ち)}は3{年(ねん)}たつと{碧色(へきしょく)}になる」[{頑張(がんば)}って{戦(たたか)}って{亡(な)}くなった{人(ひと)}の{血(ち)}は{三年(さんねん)}たつと{碧色(へきしょく)}({青色(あおいろ)})になる]という{中国(ちゅうごく)}の{古(ふる)}い{言葉(ことば)}から{来(き)}ています。
(表)
碧血碑
(台座裏)
明治辰己実有此事
立石山上以表厥志
明治八年五月
鳥羽伏見の戦いからはじまった戊辰戦争は、函館が最後の舞台となり、1869(明治2)年5月、五稜郭の開城でその幕を閉じた。この戦いによる官軍の戦死者は靖国神社をはじめ各地の招魂社(護国神社)へ手厚くまつられているが、旧幕府脱走軍の陣没者は賊軍の汚名を受けて弔う人もいなかった。
この碑は1875(明治8)年5月の7回忌に、箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助をはじめ、北関東から東北各地で戦死した旧幕府脱走軍約800人の霊を弔うために、東京の碧血会により建立されたもので、伊豆産の石を使って東京霊岸島で造られ、海路函館へ運ばれた。四角い石の祠の上に「碧血碑」と刻まれた碑が建てられている。題字は箱館戦争当時、陸軍奉行だった大鳥圭介の書といわれているが定かではない。 「碧血」とは「義に殉じて流した武士の血は3年経つと碧に変る」という中国の故事(荘子・外篇)による。さらに、台座裏側には建立の由来を記した次のような碑文(上記 碑文(台座裏)参照)が刻まれている。
明治辰己(しんし)実に此の事あり
石を山上に立て以てその志を表す
函館にも、函館碧血会ができ、柳川熊吉や旧会津藩の人々が中心になって、毎年慰霊祭を行っていた。昔は毎年定まった日に催されていなかったが、近年は毎年6月25日(千代ヶ岡の決戦の日で、千代ヶ岡陣屋の守将中島三郎助父子らが討死した旧暦の5月16日にあたる)には碑前祭が行われている。
箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本式場らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。
碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。
なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。
函館市
HEKKETSU-HI MONUMENT
This monument was raised to the souls of Hijjkata Toshizo,Nakajima Saburosuke and his sons who were killed in the Hakodate Battle,and the other fallen Tokugawa Shogunate Warriors who died somewhere between the Northern Kanto district and the Tohoku region during the war.On the 7th anniversary of their death in 1875,with the support of Otori Keisuke and Enomoto Takeaki,this stone was brought from Tokyo by ship.
The epigraph on the stone is ascribed to Otori Keisuke,who served as Army Bugyo during the war.
Inscribed on the back of the pedestal is a 16-letter classical Chinese poem,which explains the purpose of the monument.Its expression suggests that the people in those days couldn't offer prayers for the souls of the fallen Tokugawa Shogunate Warriors openly.
The name of this monument "Hekketsu" derives from an old Chinese saying,"The blood of warriors who die for their lord turns blue after three years."
CITY OF HAKODATE
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年) 、「函館市史資料集」第26集・第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「函館の史蹟と名勝」、「北海道の歌碑総覧」