亀井勝一郎文学碑
カメイカツイチロウブンガクヒ
■碑文
(表)
人生
邂逅し
開眼し
瞑目す
亀井勝一郎
■観光説明板
亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きく、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物誌」等は、不朽の名著として、ながく人々の心を豊かにし、そして導いて行くであろう。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わったのは残念である。
亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという身近な事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌ととなっていたことは、疑いのない事実であろう。
亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年11月日本芸術院会員となり、翌41年11月14日病により永眠した。
この碑は昭和44年10月14日、心ある人々によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し暝日す」が刻まれている。石は日高産の名石。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。
函館市
Literary Monument to Katsuichiro Kamei
Katsuichiro Kamei was a noted literary critic and thinker,who rediscoverd and developed the beauty and soul of ancient Japan.
“Human Education” written in 1937,”Natural Features and Old Temples in Yamato” in 1943 and other publications will enrich our minds and take their place among the works of great literature.
A major achievment of his later years “A study of the History of the Japanese Ethic” is highly appreciated but sadly he died before its completion.
He rarely returned to his native Hakodate,either because of devoting himself to radical ideas while young,or because he was shy.
But all through his life he spoke with a Hakodate accent and he loved Hakodate food above all other foods.
These simple facts show that his thoughts were all based in the cultural and spiritual climate of Hakodate.
He was born in Motomachi in Hakodate in 1907.After studying at the department of literature in the Tokyo Teikoku University,he played an active part as a literary critic and a thinker.
In 1965,he became a member of the Japanese Academy of Art.He died after an illness in 1966.
On October 14,1969 this monument was built by his friends and other associates.
On it they inscribed a phrase wirtten by Katsuichiro himself.This monument is made of a famous stone from Hidaka district.There is also amonument to his birth written by Saneatsu Mushanokoji.
The city of Hakodate
■追加解説
亀井勝一郎(1907~1966)は、大学入学直後に「新人会」の会員となり、共産主義に傾倒して政治活動にも従事して、昭和3年には大学を中退する。同年、治安維持法違反で検挙された。獄中生活では文学に親しみ、保釈の後、日本プロレタリア作家同盟に参加、昭和7年にはデビュー作「創作活動に於ける当面の諸問題」を発表した。
勝一郎は、著作活動を行うなかで古美術や仏教への関心を深めて、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物誌」等は、不朽の名著として、ながく人々に愛されている。晩年、未完の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されている。
函館にはあまり帰らなかったが、終生、函館弁を使い、故郷の味を好んだという。その思想の根底には、函館の風土と人心が影響を与えていた。
■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「北海道文学大事典」(北海道新聞社 1985年)
亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は、思想家(しそうか)[ 社会(しゃかい)について 深(ふか)く 考(かんが)える 人(ひと)]、文芸評論家(ぶんげいひょうろんか)[ 文学作品(ぶんがくさくひん)について 意見(いけん)を 言(い)う 人(ひと)]として 有名(ゆうめい)です。むかしの 日本人(にほんじん)が 感(かん)じる 美(うつく)しさを、今(いま)の 日本人(にほんじん)にあわせてもう 一度(いちど) 見(み)つけました。むかしの 人(ひと)の 研究(けんきゅう)から 勉強(べんきょう)して、さらにより 良(よ)くするという 素晴(すば)らしいことをしました。
亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は1937 年(ねん)に「 人間教育(にんげんきょういく)[ 本(ほん)の 名前(なまえ)]」、1943 年(ねん)の「 大和古寺風物詩(やまとこじふうぶつし)[ 本(ほん)の 名前(なまえ)]」を 書(か)きました。これらは 素晴(すば)らしい 作品(さくひん)として、長(なが)いあいだ 人々(ひとびと)を 助(たす)けています。 亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は「 日本精神史研究(にほんせいしんしけんきゅう)[ 本(ほん)の 名前(なまえ)]」を 亡(な)くなる 前(まえ)に 書(か)き 始(はじ)めました。これは 今(いま)まで 彼(かれ)の 努力(どりょく)を ひとつに 集(あつ)めたものとして、人々(ひとびと)はこれを 素晴(すば)らしいと 思(おも)いました。しかし、書(か)き 終(お)わる 前(まえ)に 亡(な)くなりました。
亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は 若(わか)いときに 社会(しゃかい)の 人々(ひとびと)とは 違(ちが)う 考(かんが)えを 持(も)っていたためか、よく 恥(は)ずかしがる 性格(せいかく)だったためか、函館(はこだて)にはあまり 帰(かえ)りませんでした。しかし、亡(な)くなるまで、函館弁(はこだてべん)[ 函館(はこだて)の 人(ひと)が 使(つか)う 言葉(ことば)]を 使(つか)いました。また、別(べつ)の 場所(ばしょ)の 美味(おい)しい 食(た)べ 物(もの)よりも、亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 生(う)まれた 函館(はこだて)の 食(た)べ 物(もの)のほうが 好(す)きでした。 亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 考(かんが)え 方(かた)を 作(つく)ったのは、函館(はこだて)という 場所(ばしょ)や 人(ひと)の 心(こころ)です。
亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は1907 年(ねん)2 月(がつ)6 日(か)、函館(はこだて)の 元町(もとまち)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 函館(はこだて)にある 町(まち)]に 生(う)まれました。 亀井喜一郎(かめいきいちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]という 男(おとこ)の 人(ひと)の 最初(さいしょ)の 息子(むすこ)でした。 亀井喜一郎(かめいきいちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]はそのころ、函館貯蓄銀行(はこだてちょちくぎんこう)[ 函館(はこだて)にあった 銀行(ぎんこう)]の えらい 人(ひと)でした。 亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は 弥生小学校(やよいしょうがっこう)、函館中学校(はこだてちゅうがっこう)、山形高等学校(やまがたこうとうがっこう)、東京帝国大学文学部(とうきょうていこくだいがくぶんがくぶ)[ 東京大学(とうきょうだいがく) 文学部(ぶんがくぶ)の 昔(むかし)の 名前(なまえ)] で 勉強(べんきょう)しました。 評論家(ひょうろんか)、思想家(しそうか)として 活躍(かつやく)し、1965 年(ねん)11 月(がつ) 日本芸術院(にほんげいじゅついん)[ 素晴(すば)らしい 作品(さくひん)を 残(のこ)した 芸術家(げいじゅつか)が 入(はい)る 会(かい)]のひとりになりました。 次(つぎ)の 年(とし)の1966 年(ねん)11 月(がつ)14 日(か)、病気(びょうき)で 亡(な)くなりました。
この 碑(ひ)[ 文字(もじ)が 書(か)いてある 石(いし)]は、1969 年(ねん)10 月(がつ)14 日(か)に 亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 活躍(かつやく)を 長(なが)いあいだ 残(のこ)したいと 思(おも)った 人(ひと)たちが 建(た)てました。 碑(ひ)に「 人生邂逅(じんせいかいこう)し 開眼(かいがん)し 瞑目(めいもく)す」という 亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 言(い)った 短(みじか)い 言葉(ことば)が 書(か)いてあります。 亀井勝一郎(かめいかついちろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 実際(じっさい)の 字(じ)で 碑(ひ)に 書(か)きました。 碑(ひ)の 石(いし)には 北海道(ほっかいどう)の 日高(ひだか)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]の 素晴(すば)らしい 石(いし)を 使(つか)っています。そして、元町(もとまち)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]には 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 書(か)いた「 生誕(せいたん)の 地碑(ちひ)」があります。