ハーバー遭難記念碑
ハーバーソウナンキネンヒ
■碑文
(表)
HEIR RUHT
UNSERER THEURER
BRUDER
DER CONSULATS-VERWESER
LUDWIG HABER.
GEB:ZU BRIEG,SCHLESIEN
DEN 15 MAERZ 1843
GEST:DEN 11TEN AUGUST
1874.
FRIDE SEINER ASCHE
(台座銅板)
前函館駐箚独逸領事ルウトヰック、ハァバァ氏は同国シレジア州の人明治七年二月当地に着任せり当時開交日猶ほ浅く人心未た定らす秋田藩士田崎秀親なる者 皇学の不振は洋学の侵入にあり做し外人を排せんとし開港場なる函館に来り市内彷徨中隅々ハァバァ氏の散策するを認め追跡して遂に此所に斬殺す実に同年八月十一日の事なり遺骸は英人ブレキストン氏棺槨に納めて翌日之を山背泊に葬る行年三十二歳犯人秀親直に自訴して九月二十六日斬に処せられ纔に事無きを得たり
爾来星霜五十年会々ハァバァ領事の旧墓碑を市中に捜り之を遭難の地に移し礎石に当時の事を刻し永く当地開港の犠牲者を追憶するの因便となす
大正十三年八月三十一日
函館図書館
■観光案内板
ドイツの代弁領事ルードヴィッヒ・ハーバーは、明治7(1854)年2月に着任したが、同年8月11日、排外思想を抱き外国人殺害の目的で来函していた旧秋田藩士田崎秀親に、この碑の向い側で斬殺された。
犯人は直後に自首、9月に処刑された。幸いドイツ公使館が、単独犯であることや適切な事後処理に理解を示したので重大な外交問題にならずにすんだ。
遺体は、事件の翌日、ブラキストンらにより外国人墓地に埋葬された。
この碑は、大正13(1924)年、甥のフリッツ・ハーバー(ノーベル賞受賞者)を迎えて没後50年祭を開催したときに、旧墓碑を遭難地に移し記念碑としたもので、外国人墓地には同型の新墓碑が建立されている。昭和19(1944)年には日本軍に持ち去られ一時行方不明になっていたが、昭和24年に土中より発見され、ここに建てられた。
函館市
MEMORIAL TO MR.HABER
Ludwig Haber,an acting consul of Germany,arrived at his post in February,1874.On August 11,at the place right across from this memorial,he was murdered by Tazaki Hidechika,Samurai of the former Akita clan who had been here for a chance to kill foreigners.He was an anti-foreigner.
Immediately after the murder,Tazaki gave himself up to the police and was executed in September.
Since the murder was committed by a single person and the Japanese government executed the criminal at once,it was fortunate that the German Legation handled the incident in a very calm way and it did not have any serious diplomatic effects.
The day after he was murdered,Blakiston and others buried Haber’s body in the foreign cemetery.
On the 50th Anniversary of his death in 1924,his tombstone was moved from the cemetery to the place of the tragedy and has become his memorial.Haber’s nephew Fritz Haber (a Nobel prize winner) attended the unveiling ceremony.In the cemetery,a similar tombstone was erected to replace the original one.
In 1944,the memorial was removed by the Japanese army and had been missing,but it was found in the earth and was again erected here in 1949.
CITY OF HAKODATE
■追加解説
ドイツ語碑文の意味は、「我々の優れている兄弟代理領事ルードウェッヒ・ハァバーは此処に眠っている。1843年3月15日シェレシーンのブリーグに生れ、1874年8月11日に死去した。彼の骸に平和あれ ペーボーム(1、2か所の誤彫がある)」(「函館市史資料集」第27集)である。
1924年(大正13年)11月8日、ベルリンであったガイザルウィルヘルム研究所の物理化学部長フリッツ・ハーバー夫妻(故人の甥)と駐日ドイツ大使ゾルフ氏の臨席をもと、山背泊の外人墓地にあった墓碑を遭難地に移し遭難記念碑として市立函館図書館が主催のもとに除幕式を挙行した。
■参考文献
「函館公園」(函館市役所土木部公園緑地課 1987年)、「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「函館の史蹟と名勝」
ドイツの@{代弁領事(だいべんりょうじ)}[{自分(じぶん)}の{国(くに)}と{外国(がいこく)}をつなぐ{人(ひと)}]、@ルードヴィッヒ・ハーバー[Ludwig Haber、{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は、1854{年(ねん)}2{月(がつ)}に{日本(にほん)}に{来(き)}ました。@{田崎秀親(たざきひでちか)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{秋田(あきた)}で{武士(ぶし)}をしていた{人(ひと)}]は、1854{年(ねん)}8{月(がつ)}11{日(にち)}に、この@{記念碑(きねんひ)}[ある{出来事(できごと)}や{人(ひと)}のしたことなどを{残(のこ)}すために{建(た)}てる{文字(もじ)}の{書(か)}いてある{石(いし)}]の{前(まえ)}で@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]を{殺(ころ)}しました。@{田崎秀親(たざきひでちか)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は{外国人(がいこくじん)}が{嫌(きら)}いだったので、{外国人(がいこくじん)}を{殺(ころ)}すために@{函館(はこだて)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]に{行(い)}きました。@{田崎秀親(たざきひでちか)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]を{殺(ころ)}した{後(あと)}、すぐに{自分(じぶん)}が@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]を{殺(ころ)}したことを{認(みと)}めました。@{田崎秀親(たざきひでちか)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は9{月(がつ)}に{亡(な)}くなりました。@ドイツ{公使館(こうしかん)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]は、@{田崎秀親(たざきひでちか)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]を{殺(ころ)}したことを{大(おお)}きな{問題(もんだい)}にしませんでした。{事件(じけん)}の{次(つぎ)}の{日(ひ)}、@ブラキストン[Blakiston、{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]たちが@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の@{遺体(いたい)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}の{体(からだ)}]を@{外国人墓地(がいこくじんぼち)}[{亡(な)}くなった{外国人(がいこくじん)}のための{場所(ばしょ)}]に{埋(う)}めました。1924{年(ねん)}に、@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の{兄弟(きょうだい)}の{息子(むすこ)}の@フリッツ・ハーバー[Fritz Haber、{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。ノーベル{賞(しょう)}をとった{人(ひと)}]を{呼(よ)}んで、@ルードヴィッヒ・ハーバー[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{亡(な)}くなって50{年(ねん)}たったことを{記念(きねん)}した{祭(まつ)}りをしました。この@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いてある{石(いし)}]は、その{時(とき)}に{昔(むかし)}あった@{墓(はか)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}のための{場所(ばしょ)}]を@{遭難地(そうなんち)}[{危険(きけん)}にあった{場所(ばしょ)}]に{移(うつ)}して、@{記念碑(きねんひ)}[ある{出来事(できごと)}や{人(ひと)}のしたことなどを{残(のこ)}すために{建(た)}てる{文字(もじ)}の{書(か)}いてある{石(いし)}]にしたものです。@{外国人墓地(がいこくじんぼち)}[{亡(な)}くなった{外国人(がいこくじん)}のための{場所(ばしょ)}]に{同(おな)}じ{形(かたち)}の@{墓(はか)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}のための{場所(ばしょ)}]があります。1944{年(ねん)}に{一度(いちど)}、{日本(にほん)}の@{軍隊(ぐんたい)}[{戦争(せんそう)}をするための{集団(しゅうだん)}]が@{石碑(せきひ)}[{石(いし)}でできた{亡(な)}くなった{人(ひと)}のためのもの]を{持(も)}っていってしまい、どこにあるのか{分(わ)}からなくなっていました。しかし、1949{年(ねん)}に{土(つち)}の{中(なか)}から{見(み)}つかって、この{場所(ばしょ)}にできました。