南部藩陣屋跡
ナンブジンヤアト
■観光説明板
幕府が蝦夷地(北海道)を初めて直轄した時代(1799年~1821年)、幕府の命により南部藩が蝦夷地を警備するための陣屋跡で、敷地は、当初16,200㎡ほどであったが、19,800㎡増して36,000㎡以上となった。
建物は極めて粗末で、ここには相当な人数が勤務し越冬していたが、病人がたくさん出た。(文化4年には342人勤務、うち150人越冬)
後の幕領時代(1854年~1867年)にもここを陣屋として再建し、約300人が勤務していた。
明治元年戊辰戦が東北に及び国元を守備する為、同年8月11日夜、イギリス人ブラキストンから雇入れた汽船に乗って箱館を引き揚げ、南部へ帰った。
この碑は昭和29年7月30日、岩手県南部会が建立した。
函館市
The remains of the garrison of the Nanbu Clan
These are the remains of the garrison where the Nanbu clan kept watch over Ezo (Hokkaido).Between 1799 and 1821,the Tokugawa Shogunate government had Ezo under their direct control.At first the Nanbu garrison covered 16,200 square meters and was later enlarged to more than 36,000 square meters.
In 1807,342 men worked and stayed there throughout the cold season.Because the building was so poorly constructed and offered little protection,many became ill.Only 150 men survived through the winter.Between 1854 and 1867,the garrison was rebuilt and about 300 men served here.In 1868,fighting from the Boshin Civil War spread to the Tohoku area.To guard their hometown,the Nanbu Clansmen left Hakodate on a ship bought from an Englishman,Thomas Blakiston,on August 11.
This monument was erected by the “Nanbukai” (Nanbu Clan Society) of Iwate Prefecture on July 30,1954.
CITY OF HAKODATE
1799{年(ねん)}から1821{年(ねん)}まで、@{幕府(ばくふ)}[{1799{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}]は@{蝦夷地(えぞち)}[{昔(むかし)}の{北海道(ほっかいどう)}の{名前(なまえ)}]を{初(はじ)}めて@{支配(しはい)}[{自分(じぶん)}のものにすること]しました。その{時(とき)}、@{幕府(ばくふ)}[{昔(むかし)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}]は@{南部藩(なんぶはん)}[{岩手県(いわてけん)}にあった{集(あつ)}まり]に@{蝦夷地(えぞち)}[{昔(むかし)}の{北海道(ほっかいどう)}]を{守(まも)}るための{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}を{作(つく)}るように{言(い)}いました。その{場所(ばしょ)}を@{陣屋跡(じんやあと)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{戦(たたか)}う{人(ひと)}が{集(あつ)}まって、{泊(と)}まったり、{政治(せいじ)}をしたりする{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}]に{決(き)}めました。{最初(さいしょ)}は{場所(ばしょ)}の{大(おお)}きさが{大体(だいたい)}16,200㎡でした。その{後(あと)}に19,800㎡{増(ふ)}えて、{全部(ぜんぶ)}で36,000㎡{以上(いじょう)}の{場所(ばしょ)}の{大(おお)}きさになりました。たくさんの{人々(ひとびと)}が{壊(こわ)}れそうな{建物(たてもの)}で{働(はたら)}きながら、{冬(ふゆ)}を{過(す)}ごしました。そのため、{多(おお)}くの{人(ひと)}が{病気(びょうき)}になりました。1807{年(ねん)}には342{人(にん)}が{働(はたら)}いて、192{人(にん)}が{亡(な)}くなりました。@{幕府(ばくふ)}[1854{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}]は1854{年(ねん)}から1867{年(ねん)}にも、@{蝦夷地(えぞち)}[{昔(むかし)}の{北海道(ほっかいどう)}の{名前(なまえ)}]に@{陣屋(じんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{戦(たたか)}う{人(ひと)}が{集(あつ)}まって、{泊(と)}まったり、{政治(せいじ)}をしたりする{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}]を{作(つく)}りました。ここでは{約(やく)}300{人(にん)}が{働(はたら)}きました。1868{年(ねん)}に@{東北(とうほく)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]でも@{戊辰戦争(ぼしんせんそう)}[{日本(にほん)}で{起(お)}きた{戦争(せんそう)}の{名前(なまえ)}]が{起(お)}きました。{国(くに)}を{守(まも)}るために、1868{年(ねん)}の8{月(がつ)}11{日(にち)}の{夜(よる)}にイギリス{人(じん)}の@ブラキストン[Thomas Wright Blakiston、{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]から{買(か)}った{船(ふね)}に{乗(の)}って、@{幕府(ばくふ)}[1868{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}]の{人達(ひとたち)}は@{箱館(はこだて)} [{函館(はこだて)}の{古(ふる)}い{書(か)}き{方(かた)}]から{南(みなみ)}の{方(ほう)}に{帰(かえ)}りました。この@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いている{石(いし)}]は1954{年(ねん)}7{月(がつ)}30{日(にち)}に@{岩手県南部会(いわてけんなんぶかい)}[{岩手県(いわてけん)}にある{集(あつ)}まり]が{建(た)}てました。