新島襄海外渡航の地碑
ニイジマジョウカイガイトコウノチヒ
(表)
男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家
却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花
明治十六年一月一日録旧作 新襄
IN MEMORY OF
JOSEPH HARDY NEESIMA
1843-1890
FOUNDER OF DOSHISHA
UNIVERSITY
元治元年1864AD七月十七日旧暦六月十四日夜半
新島襄
海外渡航
乗舩之處
昭和廿七年 七月二日建之 函館市
1952AD 同志社
(裏)
新島襄ハ天保十四年二月十二日江戸ニ生ル 元治元年七月十七日箱館ヨリ乗船シ北米新英洲ニ渡リ修学十年明治七年皈國 八年同志社ヲ創立 二十三年一月二十三日歿ス 享年四十八
明治二十九年七月十七日建之 同志社
函館市
■観光説明板
新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松蔭の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を蝦夷地に選びました。
元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ司教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。
上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。
この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので元治2年(1865年)香港での作です。
渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄」の字をあてました。
明治23年(1890年)48歳で没。
函館市
MONUMENT OF SAILING ABROAD OF JO NIIJIMA
SIMETA (JO) NIIJIMA,who wanted to go abroad to learn,regared Hakodate as the best place to leave from.
In 1864,he came to Hakodate from Edo (Tokyo).While teaching Japanese to Nicholai the second bishop of Hakodate’s Russian Orthdox Church,Jo watched for a chance to leave Japan.But at that time,going abroad was prohibited.On midnight of July 17th 1864,He finally succeeded with the help of Naritoyo Fukushi who built the first Weather Station of Japan in Hakodate.During the voyage the name of Joseph was given to hima by the captain,and he became known as “Jo”.
Jo went to the United States,via Shanghai China,and studied there for 10 years.
He came back to Japan in 1874.Doshisha English School which was the antecedent of Doshisha University in Kyoto was founded bu him in 1875.
A Chinese poem,written by Jo in Hong Kong 1865,is inscribed on this monument.
“Man shold run across thousands of miles with one’s resolution.I cannot yearn for the sight of my home without suffering from what I had done After the spring wind blowing or during the windy and rainy night.I still dream a dream of flowers in my home town”.
He passed away at the age of 48 in 1890.
HAKODATE CITY
■解説
新島襄(1843~1890)は、新しい知識を海外に求め、この地から海外へ渡航した。1864年(元治元年)に江戸から函館へ到着、ハリストス正教会のニコライ主教に日本語を教えるなど海外渡航の機会を伺っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)の深夜、福士成豊(日本で最初となる函館測候所の開設者)の助力により、夜半、国禁をおかして、アメリカ船ベルリン号に乗り込み密航に成功した。
1865年(慶応元年)7月9日、上海でアメリカ船ワイルド・ローヴァー号に乗り替え、7月20日、ボストンに入港。渡米した新島は、修学10年の後、1874(明治7)年に帰国し、翌8年京都で同志社大学の前身、同志社英学校を設立した。
なお、渡航前の名前は新島七五三太(しめた)だったが、上海からの航海中、「Joe(ジョー)」の名で呼ばれ、帰国後「襄」の字をあてている。
碑に刻まれている漢詩、
訓読文
男児志を決して千里を馳す
自ら苦辛を嘗むるも豈(あに)家を思わんや
却って笑う春風雨を吹く夜
枕頭尚夢む故園の花
は、1865年(慶応元年)3月に香港で詠んだ漢詩で、のち1883年(明治16年)年正月に清書したものである。
この旧外国人居留地に碑を建てる計画は以前からあったが、1952(昭和27)年に、同志社大学から記念碑面が寄贈されたのを機に具体化することとなった。開港94年を祝う港まつり2日目の7月2日、陶製に先だって贈られた木製の記念碑面がここにあった相馬倉庫壁面にはめ込まれ、除幕式が行われた。
現在のこの碑は、1954(昭和29)年に函館市と同志社大学によって建てられたもので、同年8月21日に除幕式が行われたもので、「昭和廿七年」と刻まれている旧碑面は台座に移されている。
■参考文献
「いしぶみ」西部編(函館市役所土木部公園緑地課 1982年)、「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)、昭和25年11月25日・昭和27年6月17日・同年6月30日・同年7月3日付け「北海道新聞」、昭和27年7月3日・昭和29年8月21日付け「函館新聞」