諸術調所跡
ショジュツシラベショ
■観光説明板
諸術調所跡とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856年)に設立された。
教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。
元治元年(1864年)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。
同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカヘ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出ていってしまっていたための行動であったとも言われている。
内外共に多難な幕末期、開明的で進取積極の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民の誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓のために生き続けることであろう。
函館市
REMAlNS OF SHOJUTSUSHIRABESHO
In 1856 in order to properity train and being up capablemen for the protection and sound quarding of Ezochi (Hokkaido),an educational institution called shojutsushirabesho was built in the Hakodate magistrate.
The famous designer of Goryokaku is Ayasaburo Takeda,an instructor from the shojutsushrabesho.They taught the Western sciences by means of the Dutch langueage.Some other,rather difficult classes taught at his famous institution were:measuring,navigation,shipbuilding gunnery,fortification and chemistry.To show his lone for the great value of practice,he set out with his magnificent crew of people on the boat Kameda-maru toward to Russia.
Until 1864 when Ayasaburo became a professor in Edo Kaiseijo (the predeccessor of the persent Tokyo University),he brought up many followers.Hisoka Maejima (a founder of the postal service) and Masaru Inoue (a founder of the railway service) are both spectacular products of the well-known shojutsushirabesho.When the founding father of the Doshisha University,Jo Niijima,came to shojutsushirabesho to learn from Ayasaburo had already gone to Tokyo.
Therefore Niijima went to America from Hakodate as a stowaway to learn great knowledge.
The City of Hakodate
諸術調所跡(しょじゅつしらべしょあと)は 函館奉行所(はこだてぶぎょうしょ)[ 函館(はこだて)の 政治(せいじ)をするところ]の 研究教育施設(けんきゅうきょういくしせつ)[ 研究(けんきゅう)して 学(まな)ぶ 場所(ばしょ)]です。 蝦夷地(えぞち)[ 昔(むかし)の 北海道(ほっかいどう)の 名前(なまえ)]に 畑(はたけ)を作ったり、 住(す)んでいる 人(ひと)を 守(まも)ったりする 人(ひと)たちを 育(そだ)てました。1856 年(ねん)にできました。
先生(せんせい)は 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]です。 五稜郭(ごりょうかく)[ 函館(はこだて)にある、 戦争(せんそう)のために 作(つく)った 建物(たてもの)]の 形(かたち)を 考(かんが)えた 有名(ゆうめい)な 人(ひと)です。 蘭学(らんがく)[ オランダ 語(ご)で 西洋(せいよう)のことを 学(まな)ぶ 学問(がくもん)]だけでなく、 土地(とち)の 形(かたち)や 高(たか)さを 正(ただ)しくはかること・ 船(ふね)で 海(うみ)に 行(い)くこと・ 船(ふね)を 作(つく)ること・ 銃(じゅう)などの 武器(ぶき)[ 人(ひと)を 傷(きず)つけるための 道具(どうぐ)]を 使(つか)って 戦(たたか)うこと・ 城(しろ)を 作(つく)ること・ 化学(かがく)などを 教(おし)えました。 亀田丸(かめだまる)という 船(ふね)に 乗(の)ってロシアへ 行(い)くなど、 自分(じぶん)で実際にやってみることを 大事(だいじ)にしました。
1864 年(ねん)に 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 江戸開成所(えどかいせいじょ)[ 昔(むかし)の 東京大学(とうきょうだいがく)の 名前(なまえ)]の 先生(せんせい)になるまで、たくさんの 人(ひと)を 育(そだ)てました。 前島密(まえじまひそか)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。 郵便(ゆうびん)のしくみを 作(つく)った 人(ひと)]や 井上勝(いのうえまさる)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。 鉄道(てつどう)のしくみを 作(つく)った 人(ひと)]など 明治時代(めいじじだい)[ 1868 年(ねん)から1912 年(ねん)ころ]の 日本(にほん)の 大事(だいじ)なしくみを 作(つく)ったすばらしい 人(ひと)を 育(そだ)てました。
「 新島襄(にいじまじょう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。 同志社(どうししゃ)を 作(つく)った 人(ひと)]」も 諸術調所(しょじゅつしらべしょ)に 入(はい)るために 箱館(はこだて)[ 函館(はこだて)の 古(ふる)い 書(か)き 方(かた)]に 来(き)ました。しかし、武田斐三郎(たけだあやさぶろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 江戸(えど)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 昔(むかし)の 東京(とうきょう)の 名前(なまえ)]へ 行(い)ってしまったため、 隠(かく)れて 箱館(はこだて)からアメリカへ 行(い)きました。
江戸幕府(えどばくふ)[ 1603 年(ねん)から1868 年(ねん)の 日本(にほん)の 政府(せいふ)]が 終(お)わる 頃(ころ)は 大変(たいへん)なことがたくさんありました。そのときに、 函館(はこだて)にはたくさんの 知識(ちしき)を 持(も)って 新(あたら)しいことに 取(と)り 組(く)む 人々(ひとびと)や 学校(がっこう)がありました。そして、 良(よ)い 結果(けっか)を 日本(にほん)に 広(ひろ)げました。このことは 函館(はこだて)の 人(ひと)たちはすばらしいと 思(おも)っています。この 考(かんが)え 方(かた)は、 新(あたら)しい 時代(じだい)を 作(つく)るためにこれからも 続(つづ)くでしょう。