南部藩士の墓地

ナンブハンシノボチ

■観光説明板

寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き根室、国後、択捉に勤番所を設け、その任に就いた。その後、文政4年(1821年)に蝦夷地は松前藩に返還されたため、両藩士たちはそれぞれ帰藩したが、安政元年(1854年)に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命ぜられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。
しかし、幕府が倒され明治新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。
この間、多くの南部藩士が事故や病気で異郷の地に倒れた。函館で弔われた人については明治39年(1906年)から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年にこの地に集めたものである。
現在、この墓地には、12名の藩士の墓が祀られている。

函館市

THE CEMETERY OF NANBU HANSHI

The Tokugawa shogunate began its direct rule of the eastern part of Ezo (now Hokkaido) in 1799 and then expanded this area to include the western part 5 years later.It ordered two clans,the Nanbu clan (now Iwate Prefecture) and the Tsugaru clan (now Aomori Prefecture) to guard Ezo.Each clan dispatched 500 samurais to Ezo to fulfill this duty.The Nanbu clan located its headquarters in Hakodate and set up its branch offices in Nemuro,Kunashiri and Etorofu.Later on, those samurais went back to their hometowns because Ezo was returned to the Matsumae clan by the shogunate in 1821.The shogunate,however,ruled Ezo again in 1854 and re-ordered some clans in the Tohoku area to protect and develop Ezo.More than 600 Nanbu samurais performed their duties and were in charge of the area from Hakodate to Horobetsu (now Noboribetsu).
After the shogunate was overthrown and the Meiji regjme was established,the new govermuent designated Hakodate as the capital of Ezo and the samurais staying in Ezo returned home.
While performing their duties away from their homes,many Nanbu samurais were killed or died of sickness.A group of concerned citizens from Morioka city in Iwate Prefecture have begun activities to console those samurais who died in Hakodate since 1906.Seeing the ruined gravestones scattered around Hakodate,the people gathered them together in this cemetery in 1937.Now 12 Nanbu samurai tombs can be found here.

CITY OF HAKODATE

■やさしい日本語

1799 年(ねん)、江戸幕府(えどばくふ)[ 1603 年(ねん)から1868 年(ねん)の 日本(にほん)の 政府(せいふ)]は 東(ひがし)の 蝦夷地(えぞち)[ 昔(むかし)の 北海道(ほっかいどう)の 名前(なまえ)]を 幕府(ばくふ)の 土地(とち)にしました。5 年後(ねんご)には 西(にし)の  蝦夷地(えぞち)も 幕府(ばくふ)の 土地(とち)になりました。 南部藩(なんぶはん)[ 青森(あおもり)の 東(ひがし)にあった 集(あつ)まり]と 津軽藩(つがるは)[ 青森(あおもり)の 西(にし)にあった 集(あつ)まり]の2つが 蝦夷地(えぞち)を 守(まも)る 仕事(しごと)をしました。 それぞれ500 人(にん)くらいの 藩(はん)の 人(ひと)が 蝦夷地(えぞち)に 行(い)って 守(まも)りました。 南部藩(なんぶはん)は 箱館(はこだて)[ 函館(はこだて)の 古(ふる)い 書(か)き 方(かた)]に 一時的(いちじてき)に 住(す)む 場所(ばしょ)を 作(つく)りました。 根室(ねむろ)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 北海道(ほっかいどう)にある 町(まち)]、 国後(くなしり)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 北海道(ほっかいどう)の 北東(ほくとう)にある 島(しま)]、 択捉(えとろふ)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 北海道(ほっかいどう)の 北東(ほくとう)にある 島(しま)]に 働(はたら)く 場所(ばしょ)を 作(つく)って、 蝦夷地(えぞち)を 守(まも)りました。その 後(あと)、1821 年(ねん)に 蝦夷地(えぞち)は 松前藩(まつまえはん)[ 北海道(ほっかいどう)にあった 集(あつ)まり]に 返(かえ)ってきました。 南部藩(なんぶはん)と 津軽藩(つがるはん)の 人(ひと)たちは 自分(じぶん)たちの 藩(はん)それぞれ 帰(かえ)りました。しかし1854 年(ねん)にまた 蝦夷地(えぞち)が 幕府(ばくふ)の 土地(とち)になりました。もう 一度(いちど)、 幕府(ばくふ)は 東北(とうほく)[ 日本(にほん)の 本州(ほんしゅう)の 一番北(いちばんきた)にある 場所(ばしょ)]のいろいろな 藩(はん)に 蝦夷地(えぞち)を 守(まも)ることと、 土地(とち)をきれいにして 畑(はたけ)や 田(た)んぼにすることを 頼(たの)みました。 南部藩(なんぶはん)は 箱館(はこだて)から 幌別(ほろべつ)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 北海道(ほっかいどう)にあった 町(まち)。いまの 登別市(のぼりべつし)]の 間(あいだ)で 仕事(しごと)をしました。600 人(にん)くらいが 働(はたら)きました。 しかし 江戸幕府(えどばくふ)から 明治政府(めいじせいふ)[1868 年(ねん)から1912 年(ねん)ころの 日本(にほん)の 政府(せいふ)]になって 箱館(はこだて)に 政府(せいふ)の 仕事(しごと)をする 場所(ばしょ)ができたため、 政府(せいふ)の 人(ひと)たちが 蝦夷地(えぞち)で 仕事(しごと)をするようになりました。 蝦夷地(えぞち)で 働(はたら)いた 東北(とうほく)の 藩(はん)の 人(ひと)たちは 東北(とうほく)に 帰(かえ)りました。この 期間(きかん)、たくさんの 南部藩(なんぶはん)の 人(ひと)が 事故(じこ)や 病気(びょうき)で 亡(な)なりました。 箱館(はこだて)で 亡(な)くなった 人(ひと)については1906 年(ねん)から 盛岡(もりおか)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 岩手県(いわてけん)にある 町(まち)] で 生(う)まれた 人(ひと)たちで 慰霊(いれい)[ 亡(な)くなった 人(ひと)の 幸(しあわ)せを 願(ねが)うこと]を 続(つづ)けてきました。しかし 墓(はか)[ 亡(な)くなった 人(ひと)のための 場所(ばしょ)]の 石(いし)や 碑(ひ)[ 文字(もじ)が 書(か)いてある 石(いし)]がいろいろな 所(ところ)にあって、 壊(こわ)れて 汚(よご)れることを 心配(しんぱい)し、1937 年(ねん)にこの 地(ち)に 集(あつ)めました。  函館(はこだて)の 人(ひと)たちは 今(いま)もこの 墓(はか)を 大切(たいせつ)にしています。