東本願寺函館別院船見支院

ヒガシホンガンジハコダテベツインフナミシイン

■観光説明板

船見支院は、日本最初の鉄筋コンクリート寺院として名高い元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するため、明治37年(1904年)に建てられたもので、現在の建物は大正15年(1926年)に完成した。
この寺の墓地には、安政3年(1856年)幕府が箱館に設置した諸術調所(洋学の高等教育専門機関)の教授役で、五稜郭や弁天台場を設計監督した武田斐三郎の妻、美那子夫人の墓がある。
当時、箱館の町名主を勤め、内澗町(現末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎(ペリー来航時の記録「亜墨利加一条写」の著者)の妹で、斐三郎が来箱した翌年の安政2年(1855年)に嫁いだが、8年後の文久3年(1863年)27歳の若さで病没した。
また、安政3年(1856年)日本最初の西洋型船「籍館丸」を建造した続豊治(明治13年82歳で没)のほか、明治期の函館発展に活躍した著名人の墓が多い。

函館市

THE FUNAMI BRANCH OF THE HAKODATE HIGASHI-HONGANJI TEMPLE

The Funami Branch of the Hakodate Higashi-Honganji Temple was built in 1904 to manage the graveyard of the main temple,which was the first reinforced concrete temple in Japan.The present branch temple was completed after reconstruction in 1926.
Among the many people buried here is Takeda Minako,the wife of Takeda Ayasaburo,a professor of the Institute of Western Studies established in Hakodate in 1856.He designed and built the Goryokaku Pentagonal Fort and the Benten Pier.
Minako was a sister of Kojima Matajiro,the mayor and shop-owner who made written record of the visit of Comodore Perry to Japan.Minako died at the age of twenty-seven,0nly 8 years after she married Ayasaburo.
Tsuzuki Toyoji,a ship designer and carpenter who built Hakodate-maru,the first Japanese Western-style ship is also buried here.He died in 1880 at the age of twenty-seven.

CITY OF HAKODATE

■やさしい日本語

元町(もとまち)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]には 日本(にほん)で 初(はじ)めて 鉄筋(てっきん)コンクリート[ 普通(ふつう)のコンクリートよりも、 強(つよ)いコンクリート]でできた 有名(ゆうめい)なお 寺(てら)があります。 東本願寺(ひがしほんがんじ) 函館(はこだて) 別院(べついん)です。 船見支院(ふなみしいん)は 東本願寺(ひがしほんがんじ) 函館(はこだて) 別院(べついん)のお 墓(はか)[ 亡(な)くなった 人(ひと)のための 場所(ばしょ)]を 守(まも)るために1904年(ねん)に つくりました。
今(いま)の 建物(たてもの)は1926年(ねん)にできました。
箱館(はこだて)[ 函館(はこだて)の 古(ふる)い 書(か)き 方(かた)]には1856年(ねん)に 諸術調所(しょじゅつしらべしょ)[ 西洋(せいよう)の 学問(がくもん)を 勉強(べんきょう)するところ]ができました。そこには、五稜郭(ごりょうかく)[ 函館(はこだて)にある、 戦争(せんそう)のために 作(つく)った 建物(たてもの)]や 弁天台場(べんてんだいば)[ 大(おお)きい 銃(じゅう)を 置(お)くための 場所(ばしょ)]を 作(つく)った 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]という 先生(せんせい)がいました。その 妻(つま)の 美那子(みなこ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]のお 墓(はか)が 東本願寺(ひがしほんがんじ) 函館(はこだて) 別院(べついん)にあります。 美那子(みなこ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は 小島又次郎(こじままたじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]という 箱館(はこだて)の 町名主(まちなぬし)[ 町(まち)の  政治(せいじ)をしていた 人(ひと)]で、今(いま)の 末広町(すえひろちょう)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]でお 店(みせ)を 開(ひら)いていた 人(ひと)の 妹(いもうと)です。 小島又次郎(こじままたじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は ペリー[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 日本(にほん)に 来(き)た 時(とき)のことを 書(か)いた 本(ほん)「 亜墨利加(あめりか) 一条(いちじょう) 写(うつし)」を 書(か)いた 人(ひと)でもあります。 美那子(みなこ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 箱館(はこだて)に 来(き)た 次(つぎ)の 年(とし)(1855年(ねん))に 武田斐三郎(たけだあやさぶろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]と 結婚(けっこん)しました。しかし1863年(ねん)、美那子(みなこ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は27歳(さい)の 時(とき)に 病気(びょうき)で 亡(な)くなりました。
また、1856年(ねん)に 日本(にほん)で 初(はじ)めての ヨーロッパ 式(しき)の 船(ふね)「 籍館(はこだて) 丸(まる)」を 作(つく)った 続豊治(つづきとよじ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)](1880 年(ねん)に82 歳(さい)で 亡(な)くなりました。)のほか、明治時代(めいじじだい)[1868 年(ねん)から1912 年(ねん)ころ]に 函館(はこだて)が 成長(せいちょう)できるように 働(はたら)いた 有名(ゆうめい)な 人(ひと)のお 墓(はか)がたくさんあります。