土方歳三と新選組隊士の供養碑

ヒジカタトシゾウトシンセングミタイシノクヨウヒ

■観光説明板

土方歳三と新撰組隊士の供養碑

土方歳三(新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に供養碑を建てた、と記している。
称名寺は、明治期の大火で、3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。

THE MONUMENT ERECTED FOR THE REPOSE OF TOSHIZO HIJIKATA AND SHINSENGUMI MEMBER’S SOULS

Toshizo Hijikata (Shinsengumi vice director) joined the Enomoto army and died in the battel.There are differen rumors that he died in Ippongi in Wakamatsucho,or in Tsuruokacho,or maybe in Eikokubashi in Jujigai.
A record was taken from the Kongoji Temple in Hino a Metropolis city in Tokyo.Therre it noted that the Hijikata monument was builtin Hakodate’s Shomyoji Temple.This temple and the monument were visited three times by a disastrous fire in the Meiji period.All the people involed once again build it in 1973.
The order four names were Shinsengumi member’s whose gravestones used to be in Shomyoji Temple graveyard.
Since they were destroyed by a typhoon in 1953,they were engrawed once again on this monument.

■やさしい日本語

@{土方歳三(ひじかたとしぞう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}](@{新選組(しんせんぐみ)}[1860{年(ねん)}ごろに、{日本(にほん)}の{政治(せいじ)}をするところを{守(まも)}った{人(ひと)}たち]@{副長(ふくちょう)}[2{番目(ばんめ)}に{偉(えら)}い{人(ひと)}])は、@{榎本武揚(えのもとたけあき)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]の{軍(ぐん)}と{一緒(いっしょ)}に{戦(たたか)}って、@{函館(はこだて)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]で{亡(な)}くなりました。{亡(な)}くなった{場所(ばしょ)}は、@{若松町(わかまつちょう)}の{一本木(いっぽんぎ)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]、@{鶴岡町(つるおかちょう)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]、@{異国橋(いこくきょう)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}、{今(いま)}の{十字街(じゅうじがい)}]などたくさんの{意見(いけん)}があります。@{土方歳三(ひじかたとしぞう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と{関係(かんけい)}のある@{東京都日野市(とうきょうとひのし)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]@{金剛寺(こんごうじ)}[{寺(てら)}の{名前(なまえ)}]では、{亡(な)}くなった{人(ひと)}の{名前(なまえ)}や{生(う)}まれた{年(とし)}、{月(つき)}、{日(ひ)}にちが{書(か)}いてあるものがあります。また、そこには@{函館称名寺(はこだてしょうみょうじ)} [{寺(てら)}の{名前(なまえ)}]に@{供養碑(くようひ)}[ {亡(な)}くなった{人(ひと)}の{幸(しあわ)}せを{願(ねが)}って{作(つく)}った{石(いし)}]を{作(つく)}ったと{書(か)}いてあります。 @{函館称名寺(はこだてしょうみょうじ)} [{寺(てら)}の{名前(なまえ)}]は@{明治時代(めいじじだい)}[{日本(にほん)}の{年号(ねんごう)}の{一(ひと)}つ、1868{年(ねん)}から1912{年(ねん)}]に3{回(かい)}{起(お)}こった{大(おお)}きな{火事(かじ)}で{焼(や)}けました。{今(いま)}の{供養碑(くようひ)}は1973{年(ねん)}に@{有志(ゆうし)}[あることに{同(おな)}じ{関心(かんしん)}を{持(も)}っている{人(ひと)}]が{作(つく)}りました。{他(ほか)}の4{人(にん)}は@{新選組(しんせんぐみ)}[1860{年(ねん)}ごろに、{日本(にほん)}の{政治(せいじ)}をするところを{守(まも)}った{人(ひと)}たち]の{仲間(なかま)}で、@{函館称名寺(はこだてしょうみょうじ)} [{寺(てら)}の{名前(なまえ)}]の@{墓(はか)}[{亡(な)}くなった{人(ひと)}のための{場所(ばしょ)}]に{亡(な)}くなった{人(ひと)}の{名前(なまえ)}や{亡(な)}くなった{年(とし)}などを{書(か)}いた{石(いし)}がありましたが、1954{年(ねん)}の{台風(たいふう)}で{壊(こわ)}れたので、この@{碑(ひ)}[{文字(もじ)}が{書(か)}いてある{石(いし)}]に{名前(なまえ)}を{書(か)}きました。