山上大神宮

ヤマノウエダイジングウ

■観光説明板

山上大神宮は、社伝によると今から600年ほど前の応安年間(室町初期)、藤坊という修験者がこの地に渡来し、亀田赤井川村神明山に草庵を結び、伊勢神宮の御霊をいただいたのが始まりと伝えられる。
その後、明暦元年(1655年)5月、尻澤辺村(現在の住吉町)に移し、箱館神明宮と称したとも伝えられる。
天和2年(1682年)現在の西消防署弥生出張所付近に移転し、明治7年(1874年)社名をこの地の山之上町をとり山上大神宮と改称し、明治9年(1876年)郷社となった。
幕末の頃、当宮8代神職であった澤辺琢磨(旧名山本琢磨)は、土佐藩士で坂本龍馬、武市半平太とは親類関係にあった。また、箱館戦争の時、榎本武揚率いる旧幕府軍に加わった桑名藩主松平定敬(さだあき)の御座所に使用されるなど、歴史的にも由緒ある神社である。

函館市

YAMANOUE DAIJINGU (The Great Shrine of Yamanoue)

According to the shrine record,the origin of Yamanoue Daijingu (The Great Shrine of Yamanoue) is in the conception of the Holy Spirit of Ise Jingu Shrine by a trainee monk named Fujibo.Fujibo came to Hakodate about 600 years ago during the Ouan years (at the beginning of Muromachi Era) and set up a retreat on top of Shinmeisan Mountainin Kameda-Akagawa Village.
Later the shrine was transferred to Shirisawabe Village (now Sumiyoshi-cho),and renamed Hakodate Shinmeigu Shrine.In 1682,the shrine was transferred again to the present location near the Yayoi Division of the Nishi Fire Department.
The shrine was then renamed Yamanoue Daijingu from the towns name Yamanoue and in 1876 it was officially designated as the town shrine.
The shrines 8th Shinto priest Sawabe Takuma (formerly named Yamamoto Takuma) at the end of Edo period was or iginally from Tosa Clan and was related to Sakamoto Ryoma and Takeichi Hanpeita.
The shrine played not a small role in Hakodate history:During the Hakodate War it was used as a living quarter of Matsudaira Sadaaki,the head of Kuwana Clan who fought with the Shogunate Army headed by EnomotoTakeaki.

CITY OF HAKODATE

■やさしい日本語

{山上大神宮(やまのうえだいじんぐう)}は、{言(い)}い{伝(つた)}えによると、{今(いま)}から600{年(ねん)}くらい{前(まえ)}の1368{年(ねん)}から1375{年(ねん)}の{間(あいだ)}に、@{藤坊(ふじぼう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]という@{修験道(しゅげんどう)}[{山(やま)}の{中(なか)}で{修業(しゅぎょう)}をする、{昔(むかし)}の{日本(にほん)}の{宗教(しゅうきょう)}の{形(かたち)}のひとつ]の{修行(しゅぎょう)}をする{人(ひと)}がこの{地(ち)}に{来(き)}て @{御霊(みたま)}[{神(かみ)}や{祖先(そせん)}の{霊(れい)}]をもらったのが{始(はじ)}まりです。
その{後(ご)}、1655{年(ねん)}5{月(がつ)}に、 @{尻澤辺村(しりさわべむら)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]({今(いま)}の{住吉町(すみよしちょう)})に{場所(ばしょ)}を{移(うつ)}して、{名前(なまえ)}を{箱館神明宮(はこだてしんめいぐう)}としたとも{伝(つた)}わっています。
1682{年(ねん)}に{今(いま)}の @{西消防署弥生出張所(にししょうぼうしょやよいしゅっちょうじょ)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]の{近(ちか)}くに{場所(ばしょ)}を{移(うつ)}しました。そして、1874{年(ねん)}に、この{地(ち)}が{山之上町(やまのうえちょう)}という{名前(なまえ)}だったので{山上大神宮(やまのうえだいじんぐう)}という{名前(なまえ)}に{変(か)}えました。1876{年(ねん)}には @{郷社(ごうしゃ)}[{神社(じんじゃ)}の{格(かく)}のひとつ]になりました。
@{江戸時代(えどじだい)}[1603{年(ねん)}から1867{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{時代(じだい)}]の{終(お)}わりのころ、この{神社(じんじゃ)}の8{代(だい)} @{神職(しんしょく)}[{神(かみ)}のためにお{祭(まつ)}りや{神社(じんじゃ)}の{仕事(しごと)}をする{人(ひと)}]だった @{澤辺琢磨(さわべたくま)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}](もともとの{名前(なまえ)}は{山本琢磨(やまもとたくま)})は、 @{土佐藩(とさはん)}[{高知県(こうちけん)}のあたりにあった{集(あつ)}まり]の{武士(ぶし)}で @{坂本龍馬(さかもとりょうま)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]、 @{武市半平太(たけちはんぺいた)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]とは{親族(しんぞく)}の{関係(かんけい)}にありました。また、 @{箱館戦争(はこだてせんそう)}[1868{年(ねん)}から1869{年(ねん)}に{函館(はこだて)}で{起(お)}こった{戦争(せんそう)}]の{時(とき)}、 @{榎本武揚(えのもとたけあき)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{連(つ)}れていた @{旧幕府軍(きゅうばくふぐん)}[ 1603{年(ねん)}から1867{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}の{人(ひと)}たち]に{入(はい)}った @{桑名藩(くわなはん)}[{三重県(みえけん)}のあたりにあった{集(あつ)}まり]の @{藩主(はんしゅ)}[{集(あつ)}まりで1{番(ばん)}{偉(えら)}い{人(ひと)}]の @{松平定敬(まつだいらさだあき)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]のお{部屋(へや)}に{使(つか)}うなど、{歴史的(れきしてき)}にも{伝統(でんとう)}のある{神社(じんじゃ)}です。