己巳役海軍戦死碑

キシノエキカイグンセンシヒ

hako098■碑文

(表)己巳役海軍戦死碑

(各鑑戦死者名列記)

(側面)
余乗筑波艦航北海到函港也来吊此墓碑矣而碑中脱春日艦水夫上野太郎姓名因茲追刻之於碑端
明治六年十二月 伊東海軍少将誌

■観光説明板

ここは、明治2年(1869年)の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所である。同年4月、討伐体制を整えた新政府軍は、旧幕府脱走軍に攻撃を開始、5月11日箱館湾海戦で新政府軍軍艦「朝陽(ちょうよう)」は、旧幕府脱走軍軍艦「蟠龍(ばんりゅう)」の砲弾を受けて沈没した。
この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助(なつあきまたのすけ)以下73名の新政府軍海軍の戦死者名が刻まれている。建立年月は刻まれていないが、明治2年に建立されたものと思われる。
碑の石は、「高田屋の亀石」と呼ばれていた石の一部である。高田屋嘉兵衛全盛のころ、現宝来町に築かれた「高田屋御殿」と呼ばれた豪邸の庭園に据えられていたものである。
嘉兵衛が、貧民救済の自的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの巨石を多数の人を動員して引き揚げさせたところ、亀に似ていたので亀石と呼ばれた。
護国神社(青柳町)にある「海陸軍戦死人名」碑と「招魂場(しょうこんじょう)」碑も同じ亀石を割って作られたものであり、いずれも箱館戦争新政府軍死者を祀った記念碑である。

函館市

Monument to Navy Servicemen Lost in the Kishi War

This is the graveyard for servicemen of the new government’s navy knled in the Hakodate Civll War in 1869.In April that year,the new government’s forces started to attack deserters from the former shogunate.A battleship of the new government’s navy,the Choyo,was sunk by the enemy’s battleship Banryu in the Battle of Hakodate Bay on May 11.The names of Vice Captain Matanosuke Natsuaki and the other 72 crew of the Choyo who perished are inscribed on this monument.It is believed to have been erected in 1869 although it doesn’t have an inscription confirming this.
The stone used for the monument is part of a rock called “kameishi [turtle stone] of Takadaya”,a feature of the garden that was built around Kahei Takadaya’s mansion.He constructed it in present-day Horai-cho at the height of his career.He hired a lot of people to pull up a huge undersea rock,over two square meters in area,from Sumiyoshi Beach partly to provide employment to the poor.The rock was so called because it resembles a turtle.
The two monuments in the grounds of Gokoku Shrine in Aoyagi-cho were also made from the same rock and they too are memorials dedicated to the new government’s servicemen killed in the Hakodate Civil War.

City of Hakodate

■追加解説

甲鉄艦(5名)、朝陽艦(62名)、春日艦(4名 追刻1名)、飛竜丸(1名)の73名の名が刻まれている。
1873年(明治6年)12月、春日鑑副館長だった海軍少将伊東祐麿が函館を訪れた際、春日鑑戦死者のなかに上野太郎(水夫)の名前が欠けていることに気づいたため、その姓名を碑端に追刻させた。その追悼文が碑側面に刻まれている。

■参考文献

「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)、「函館の史蹟と名勝」、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)

■やさしい日本語

1869年(ねん)の 箱館戦争(はこだてせんそう)[ 1868 年(ねん)から1869 年(ねん)に 函館(はこだて)で 起(お)こった 戦争(せんそう)]でたくさんの 新政府海軍(しんせいふかいぐん)[ 日本(にほん)の 新(あたら)しい 政治(せいじ)をする 人(ひと)たちで 海(うみ)で 戦(たたか)う 人(ひと)たち]が 死(し)にました。 己巳役海軍戦死碑(きしのえきかいぐんせんしひ)は、その 人(ひと)たちの 墓(はか)[ 亡(な)くなった 人(ひと)のための 場所(ばしょ)]です。
1869 年(ねん)4 月(がつ)、戦(たたか)う 準備(じゅんび)をした 新政府軍(しんせいふぐん)は、旧幕府脱走軍(きゅうばくふだっそうぐん)[ 1603 年(ねん)から1868 年(ねん)の 日本(にほん)の 政府(せいふ)の 人(ひと)で 函館(はこだて)に 逃(に)げた 人(ひと)たち]と 戦(たたか)いました。5 月(がつ)11 日(にち)、箱館湾海戦(はこだてわんかいせん)[ 函館(はこだて)の 近(ちか)くの 海(うみ)で 起(お)きた 戦争(せんそう)]で 新政府軍(しんせいふぐん) 軍艦(ぐんかん)[ 戦(たたか)うための 船(ふね)]「 朝陽(ちょうよう)[ 軍艦(ぐんかん)の 名前(なまえ)]」は、旧幕府脱走軍(きゅうばくふだっそうぐん) 軍艦(ぐんかん)「 蟠龍(ばんりゅう)[ 軍艦(ぐんかん)の 名前(なまえ)]」に 負(ま)けました。 己巳役海軍戦死碑(きしのえきかいぐんせんしひ)には、「 朝陽(ちょうよう)」 副艦長(ふくかんちょう)[ 船(ふね)の 中(なか)で 二番目(にばんめ)に えらい人] 夏秋又之助(なつあきまたのすけ)[人の名前]など73 人(にん)の 新政府軍海軍(しんせいふぐんかいぐん)の 亡(な)くなった 人(ひと)の 名前(なまえ)が 書(か)いてあります。
いつ 己巳役海軍戦死碑(きしのえきかいぐんせんしひ)ができたかは 書(か)いてありませんが、 研究(けんきゅう)する 人(ひと)は、
1869 年(ねん)にできたと 考(かんが)えています。 碑(ひ)[ 文字(もじ)が 書(か)いてある 石(いし)]の 石(いし)は、「 高田屋(たかだや)の 亀石(かめいし)」という 石(いし)の 一部(いちぶ)です。 高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が 力(ちから)を 持(も)っていた 時(とき)、宝来町(ほうらいちょう)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 函館(はこだて)にある 町(まち)。]の「 高田屋御殿(たかだやごてん)」という 大(おお)きな 家(いえ)の 庭(にわ)にあった 石(いし)を 使(つか)っています。 高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]が、お 金(かね)に 困(こま)っている 人(ひと)を 助(たす)けるため、住吉浜(すみよしはま)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 函館(はこだて)にある 浜辺(はまべ)]の 海(うみ)の 中(なか)にあった 大(おお)きな 石(いし)を 多(おお)くの 人(ひと)が 運(はこ)びました。 大(おお)きな 石(いし)が 亀(かめ)に 似(に)ていたので「 亀石(かめいし)」といいます。
青柳町(あおやぎちょう)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 函館(はこだて)にある 町(まち)。]の 函館護国神社(はこだてごこくじんじゃ)[ 函館(はこだて)の 神社(じんじゃ)の 名前(なまえ)]にある「 海陸軍戦死人名(かいりくぐんせんしにんめい)」 碑(ひ)と「 招魂場(しょうこんじょう)」 碑(ひ)も 同(おな)じ「 亀石(かめいし)」を 使(つか)っています。「 海陸軍戦死人名(かいりくぐんせんしにんめい)」 碑(ひ)も「 招魂場(しょうこんじょう)」 碑(ひ)も 箱館戦争(はこだてせんそう)で 亡(な)くなった 新政府軍(しんせいふぐん)を 大切にしている 碑(ひ)です。

 

 

大エリア 函館市
小エリア 西部地区
所在地北海道函館市船見町6(元官修墓地)
制作時代
主題時代
カテゴリ やさしい日本語(観光), 碑・像