旧函館区公会堂

キュウハコダテクコウカイドウ

旧函館区公会堂

明治40年(1907年)8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りが焼失した。
この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の寄付を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商、初代相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で、左右対称形になっており、2階にはバルコニーを配しているほか、屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表わしている。
昭和49年(1974年)5月、国の重要文化財に指定され、同55年(1980年)から約3年を費やして修復、平成30年(2018年)10月からは耐震補強を含めた保存修理工事を実施。
函館市

■やさしい日本語

1907{年(ねん)}8{月(がつ)}、{大(おお)}きな{火事(かじ)}がありました。この{火事(かじ)}で9000くらいの{家(いえ)}がなくなりました。これは@{函館区(はこだてく)}[{今(いま)}の{函館市(はこだてし)}]の{半分(はんぶん)}でした。この{火事(かじ)}で@{町会所(ちょうかいじょ)}[{函館区(はこだてく)}に{住(す)}んでいる{人(ひと)}が{会(あ)}う{場所(ばしょ)}]もなくなりました。そのため、@{公会堂建設協議会(こうかいどうけんせつきょうぎかい)}[{公会堂(こうかいどう)}を{建(た)}てるための{集(あつ)}まり]を{作(つく)}りました。@{公会堂建設協議会(こうかいどうけんせつきょうぎかい)}[{公会堂(こうかいどう)}を{建(た)}てるための{集(あつ)}まり]ではお{金(かね)}を{集(あつ)}めました。{新(あたら)}しい{建物(たてもの)}を{建(た)}てるためです。しかし、{火事(かじ)}の{後(あと)}だったのでお{金(かね)}が{集(あつ)}まりませんでした。その{時(とき)}、@{相馬哲平(そうまてっぺい)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]さんは{函館(はこだて)}のお{金持(かねも)}ちでした。@{相馬哲平(そうまてっぺい)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]さんは{火事(かじ)}でたくさん{自分(じぶん)}の{店(みせ)}をなくしました。しかし、@{公会堂建設協議会(こうかいどうけんせつきょうぎかい)}[{公会堂(こうかいどう)}を{建(た)}てるための{集(あつ)}まり]のために@5{万円(まんえん)}[50,000{円(えん)}、{今(いま)}の10{億円(おくえん)}くらい]を{出(だ)}しました。そして、1910{年(ねん)}に{今(いま)}の{公会堂(こうかいどう)}ができました。{公会堂(こうかいどう)}は、{北海道(ほっかいどう)}で{有名(ゆうめい)}な@{明治洋風建築物(めいじようふうけんちくぶつ)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{方法(ほうほう)}と、アメリカやヨーロッパの{方法(ほうほう)}の{両方(りょうほう)}を{使(つか)}った{建物(たてもの)}]です。{建物(たてもの)}の{右(みぎ)}と{左(ひだり)}の{形(かたち)}が{同(おな)}じです。2{階(かい)}には@バルコニー[{建物(たてもの)}の2{階(かい)}より{上(うえ)}の{外(そと)}に{付(つ)}いている{場所(ばしょ)}]があります。また、{屋根(やね)}に{窓(まど)}があります。そして、{玄関(げんかん)}の{柱(はしら)}に@{柱頭飾(ちゅうとうかざ)}り[{柱(はしら)}の{上(うえ)}に{付(つ)}いているもの]があります。{左(ひだり)}の{入口(いりぐち)}と{右(みぎ)}の{入口(いりぐち)}にも@{柱頭飾(ちゅうとうかざ)}り[{柱(はしら)}の{上(うえ)}に{付(つ)}いているもの]があります。1974{年(ねん)}5{月(がつ)}、{公会堂(こうかいどう)}は{日本(にほん)}の@{重要文化財(じゅうようぶんかざい)} [{文化(ぶんか)}を{伝(つた)}えるために{特(とく)}に{大切(たいせつ)}なもの]になりました。1980{年(ねん)}から3{年(ねん)}くらいかけて{建物(たてもの)}を{直(なお)}しました。

■解説

旧函館区公会堂

明治40年(1907年)8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りが焼失した。
この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の寄付を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商、初代相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で、左右対称形になっており、2階にはバルコニーを配しているほか、屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表わしている。
昭和49年(1974年)5月、国の重要文化財に指定され、同55年(1980年)から約3年を費やして修復、平成30年(2018年)10月からは耐震補強を含めた保存修理工事を実施。
函館市

■観光説明板

明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、9,000戸近くを焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建築資金として区民の浄財を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗など多くを消失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したためこれをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対象形になっており、2階にはベランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入り口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表している。
昭和49年5月国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。

函館市