北海道第一歩の地碑(ほっかいどうだいいっぽのちひ)

■やさしい日本語

明治維新(めいじいしん)[ 1831年(ねん)から 1845年(ねん)に 国(くに)の 法律(ほうりつ)などを 大(おお)きく 変(か)えたこと]の 後(あと)、函館(はこだて)はその 名前(なまえ)の 通(とお)り、北海道(ほっかいどう)の 玄関(げんかん)になりました。そして、北海道(ほっかいどう)へ 最初(さいしょ)に 来(き)た 人(ひと)が 第一歩(だいいっぽ)を 記録(きろく)したのが、東浜桟橋(ひがしはまさんばし)[ 昔(むかし)、たくさんの 船(ふね)が 止(と)まった 場所(ばしょ)]です。
青函航路(せいかんこうろ)[ 函館(はこだて)と 青森(あおもり)をつなぐ 海(うみ)の 道(みち)]は、1873年(ねん)に 北海道(ほっかいどう)を 変(か)えたい 弘明丸(こうめいまる)[ 船(ふね)の 名前(なまえ)]が 荷物(にもつ)を 運(はこ)び 始(はじ)めました。1879年(ねん)に 三菱会社(みつびしかいしゃ)[ 会社(かいしゃ)の 名前(なまえ)]が 北海道(ほっかいどう)を 変(か)えたい 人(ひと)から 青函航路(せいかんこうろ)をもらいました。その後(あと)、日本郵船鉄道会社(にほんゆうせんてつどうかいしゃ)[ 会社(かいしゃ)の 名前(なまえ)]などが 荷物(にもつ)を 運(はこ)び 続(つづ)けました。1908年(ねん)、 国(くに)の 鉄道(てつどう)の 航路(こうろ)[ 海(うみ)の 道(みち)] として 比羅夫丸(ひらふまる)[ 船(ふね)の 名前(なまえ)]と 田村丸(たむらまる)[ 船(ふね)の 名前(なまえ)]を 使(つか)い 始(はじめ)ました。
その 時(とき)、連絡(れんらく)をする 船(ふね)は 沖(おき)に 止(と)まりました。 客(きゃく)は 小(ちい)さな 船(ふね)で 桟橋(さんばし)と 連絡(れんらく)をする 船(ふね)の 間(あいだ)を 動(うご)きました。 東浜桟橋(ひがしはまさんばし)は、1871年(ねん)にできました。
1910年(ねん)2月(がつ)、連絡(れんらく)する 船(ふね)の 桟橋(さんばし)は 若松ふ頭(わかまつふとう)に 新(あたら)しくできました。しかし、その 後(あと)も 東浜桟橋(ひがしはまさんばし)は 使(つか)っていました。 北(きた)の 海(うみ)で 魚(さかな)を 取(と)る 時(とき)の 集(あつ)まる 場所(ばしょ)に 使(つか)っていました。 大事(だいじ)な 場所(ばしょ)でした。 太平洋戦争(たいへいようせんそう)[ 戦争(せんそう)の 名前(なまえ)] をする 前(まえ)、 北(きた)の 海(うみ)に 行(い)くときにとても 使(つか)っていました。
この 碑(ひ)は、 熊(くま)にいかりをつけていて、航路(こうろ)が 見(み)つかって 100年(ねん)を 喜(よろこ)んでいるものです。この 碑(ひ)は、 昔(むかし)の 北海道(ほっかいどう)を 変(か)えたい 人(ひと)を 思(おも)っています。また、 北海道(ほっかいどう)がこれから 良(よ)くなることを 思(おも)って、1868年(ねん)9月(がつ)にできました。