猪股作蔵顕彰碑

イノマタサクゾウケンショウヒ

猪股作蔵顕彰碑
猪股作蔵顕彰碑

 

■碑文

振興一家之事業竟謀社會之公益名實倶完者世豈乏斯人歟作蔵猪股君蓋其人也君産于北海道渡島國上磯郡木古内邨父為畑中作右衛門君幼而壮實性好漁業櫛風浴雨難苦自勉同里豪侠愛燐最深稍長馳驅于東西其志益固萬延元年関内邨猪股五郎助養以為子擧其長女配之當此時猪股氏家甚貧君堤竹籃賣魚隣里侵晨而出日暮而遂十年如一日遂大與家産現有鰊魚建網十餘統云君為人朴直不屑獨占其利與衆相謀事業大進尋建関内学校函館江刺之両港羅于火災景况最惨君指金若千賑之明治十八年登梅苗和尚之戒壇遂受法號即稱慈雲院観無量音居士同十九年創立一寺於関内邨圓通山観音寺是也君平生為衆講利事無大小単身當之故為衆人所推重官亦賞之数次明治廿二年八月七日病死享年五十四葬于門昌庵之先蛍鳴呼君之志與業可以傳于後世也余記其

概略如此

明治廿四年八月七日

従四位勲三等西岡逾明題額   芯書伊達顕峯撰

松田秀雄書

■解説

この碑は関内の網元猪股作蔵氏を顕彰した碑である。猪股作蔵については明治十九年に青江秀北海道庁理事官が全道を廻り詳細な調査を行い「青江理事官諮問回答書」を作成し、その中に収められているので次にその要約をかかげる。

北海道庁函館支庁渡島国爾志郡熊石村支関内岡下弐拾三番地

猪股 作蔵

天保二年渡島国松前郡木古内に生れ父を畑中作左衛門と言う。作蔵はその第二子。長じて西地所々漁業者の雇夫となる事数年。万延元年作蔵年廿四歳の時、当村支関内の猪股五郎助長女の入り婿となる。しかし五郎助家は貧しく生活も苦しかった。そこで作蔵は大いに奮起し、鰊の建網を始めようと決意し、明治元年始めて長磯に漁場を新開し建網三ケ統を設け鰊五百石を収穫した。以来年々大漁をしついに本村に五ケ統長磯の六カ統を設け合計十一の建網を持つまでになった。明治十八年には雇い人百四十人をもって鰊二千石を収穫した。作蔵の性格は豪にしてかつ朴直であり、貧しい者を憐れみ、米を貸すなどの事はは幾度もあった。また教育の大切な事を痛感し明治十一年十月、本村雲石小学校の設立には金百円を寄贈した。

更に明治十六年には金五十円を出して関内に学校を作り、翌年には再築し金弐百円を繰替支出してついに関内小学校を作った。建築費の内百十九円は寄贈した。

明治十二年の函館大火の際にも壱拾円を寄付し、久遠郡上古丹村出火の時も金五円を焼け出された人に与えている。実に立派な人である。

■参考文献

2007『熊石史実年表』八雲町編

大エリア 八雲町
小エリア 熊石地区
所在地八雲町熊石関内町260
制作時代 大正
主題時代 明治
カテゴリ 碑・像