湯の川温泉発祥の地碑
ユノカワオンセンハッショウノチヒ
(表)
湯川温泉発祥之地之碑
■観光説明板
全国的に名高い湯の川温泉の起源は古く、湯倉神社に残る「元和3年(1617年)より湯座あり、薬師仏を祀っていた…」という言い伝えに始まる。 承応2年(1653年)松前藩士氏広の子、千勝丸(のちの9代藩主高広)が不治の病にかかったとき、母の清涼院が夢告でこの地に温泉があることを知り、千勝丸を湯治させ、全快したという。喜んだ清涼院は、翌年、このお礼に薬師仏を祀る社殿(現在の湯倉神社)を改造し、知内産の黄金で作った薬師尊像と唐金造りの鰐口を奉納している。 明治維新の時、五稜郭を占拠した榎本軍は、傷病兵をこの温泉で療養させたり、また、榎本自信も時々入湯したという。 湯の川の語源は、アイヌ語で「ユペツ」といい、「ユ」は湯、「ベツ」は川の意味で、「湯の流れる川」のことである。 泉質は、ナトリュウムカルシュウム塩化物泉で、神経痛、リュウーマチ、胃腸病などに効果がある。 この碑は、湯の川温泉の発祥を記念して昭和22年に建てられた。
函館市
MEMORIAL OF YUNOKAWA HOT SPRING The origin of Yunokawa hot spring,which is well known to all of Japan,is very old.Its origin cames from a saying in the Yunokawa Shrine which speaks of the source of a hot spring. It begins “The Buddha of the physician of souls was worshipped….” When the son of the Matsumae clansman Ujihiro in 1653,the ninth chief of a feudal clan Takahiro,fell to incurable disease,his mother Seiryoin was given a prophetic dream of this hot spring’s location.Yunokawa hot spring cured the son and he recoverd completely.Next year,sanctuary Seiryoin,to show hers thanks,built a sanctuary that was dedicated to the Buddha of physician of souls (the present Yunokawa Shrine).She contribute a golden statue of the physician of Souls and a golden chinese gong. During the Meiji Restoration,the Enomoto Army that occupied Goryokaku let the wounded solders try the paths for medical purpoes.Captain Enomoto also went to the spring himself.The origin of Yunokawa is “Yupets”,which means “flowing river” in Ainu. Yunokawa waters contains sodium and calcium chloride which has a good effect on neuralgia,rheumatism,stomach problems and so on. This memorial was built in 1947 in memory of the origin of Yunokawa hot spring.
City of Hakodate
■参考文献 「函館市史資料集」第27集(函館市史編纂委員会)
{湯川(ゆのかわ)}{温泉(おんせん)}{発祥(はっしょう)}{之地(のち)}{之碑(のひ)}
{日本(にほん)}で{有名(ゆうめい)}な{湯(ゆ)}の{川(かわ)}{温泉(おんせん)}はずっと {昔(むかし)}からありました。その{歴史(れきし)}のはじまりは、@{湯倉神社(ゆくらじんじゃ)}[{湯(ゆ)}の{川(かわ)}にある{神社(じんじゃ)}]にある「1617{年(ねん)}から@{温泉(おんせん)}[{人(ひと)}が{温(あたた)}かい{水(みず)}に{入(はい)}る{場所(ばしょ)}]はあって、@{薬師仏(やくしぼとけ)}[{仏(ほとけ)}さま。えらい方。]を@{祀(まつ)}っていた[{大切(たいせつ)}にしていた]…」という{話(はなし)}です。
1653{年(ねん)}、@{松前藩士(まつまえはんし)}[{昔(むかし)}の{函館(はこだて)}の{役所(やくしょ)}ではたらく{人(ひと)}] だった{松前氏広(まつまえうじひろ)}の{子(こ)}ども、@{千勝丸(ちかつまる)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{大変(たいへん)}な{病気(びょうき)}になりました。このとき @{清涼院(せいりょういん)}[{千勝丸(ちかつまる)}の{母(はは)}]の{夢(ゆめ)}の{中(なか)}で{仏(ほとけ)}さまが、「{千勝丸(ちかつまる)}を{温泉(おんせん)}に{入(い)}れなさい。」と{言(い)}いました。@{千勝丸(ちかつまる)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{温泉(おんせん)}に{入(はい)}ると、{病気(びょうき)}がなおりました。
1654{年(ねん)}、{清涼院(せいりょういん)}はお{礼(れい)}に、@{薬師仏(やくしぼとけ)}[{仏教(ぶっきょう)}の{中(なか)}のえらい{仏(ほとけ)}]のための{神社(じんじゃ)}をなおし、@{知内(しりうち)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}。{函館(はこだて)}の{西(にし)}にある{町(まち)}]でとった{黄金(おうごん)}でつくった@{薬師尊像(やくしそんぞう)}[{木(き)}などで{作(つく)}ってある{仏(ほとけ)}]と@{唐金造(からかねづく)}り[{中国(ちゅうごく)}から{伝(つた)}わった{黒(くろ)}くて{固(かた)}いもの]の@{鰐口(わにぐち)}[{神社(じんじゃ)}にある{音(おと)}をならす{道具(どうぐ)}]をあげました。@{千勝丸(ちかつまる)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は{大人(おとな)}になり、@{松前藩藩主(まつまえはんはんしゅ)}[{昔(むかし)}の{函館(はこだて)}で{一番(いちばん)}えらい{人(ひと)}]になりました。
また、@{函館戦争(はこだてせんそう)}[1868~1869{年(ねん)}にあった{戦(たたか)}い]のとき、@{五稜郭(ごりょうかく)}[{函館(はこだて)}にある、{敵(てき)}が{入(はい)}らないように{作(つく)}った{建物(たてもの)}と{高(たか)}い{壁(かべ)}]にいた@{兵士(へいし)}[{戦争(せんそう)}に{行(い)}く{人(ひと)}]はこの{温泉(おんせん)}で{戦争(せんそう)}の{怪我(けが)}をなおしました。@{榎本武揚(えのもとたけあき)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}。{昔(むかし)}の{函館(はこだて)}で{一番(いちばん)}{偉(えら)}かった{人(ひと)}]も{温泉(おんせん)}に{入(はい)}りました。
{湯(ゆ)}の{川(わ)}という{言葉(ことば)}は、アイヌ{語(ご)}[{北海道(ほっかいどう)}に{先(さき)}に{住(す)}んでいた{人(ひと)}たちのことば]の「ユペツ」からできました。「ユ」は、@お{湯(ゆ)}[{温(あたた)}かい{水(みず)}]、「ペツ」は{川(かわ)}をあらわし、「お{湯(ゆ)}が{流(なが)}れる{川(がわ)}」という{意味(いみ)}です。
{湯(ゆ)}の{川温泉(かわおんせん)}には、@ナトリウム[Na。ナトリウムが{温泉(おんせん)}に{入(はい)}っていると、{肌(はだ)}が{綺麗(きれい)}になる。]、 カルシウム[Ca。カルシウムが{温泉(おんせん)}に{入(はい)}っていると、{体(からだ)}の{痛(いた)}みが{少(すく)}なくなる。]、 {塩分(えんぶん)}[{塩(しお)}の{割合(わりあい)}]がたくさん{入(はい)}っています。@{神経痛(しんけいつう)}[{体(からだ)}に{電気(でんき)}が{流(なが)}れるような{痛(いた)}み]、リュウーマチ[ひざやひじの{痛(いた)}み]や@{胃腸病(いちょうびょう)}[{腹(はら)}の{辺(あた)}りの{病気(びょうき)}]をなおします。
この@{石碑(せきひ)}[{起(お)}こったことを{祝(いわ)}って、{石(いし)}に{文(ぶん)}を{書(か)}いたもの]は、{湯(ゆ)}の{川温泉(かわおんせん)}ができたことを@{祝(いわ)}って[{良(よ)}いことがあったときにみんなで{喜(よろこ)}ぶこと]1947{年(ねん)}にできました。