千代ヶ岡陣屋跡

チヨガオカジンヤアト

■観光説明板

文化5年(1808年)、幕府から蝦夷地(北海道)の警備を命じられた仙台藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯に、東西約130m、南北約150mの土塁を築き陣屋を置いたのが最初である。
安政2年(1855年)には、幕府が津軽藩に対して、西は乙部から神威岬まで、東は箱館から恵山岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、ここを元陣屋として受け持ったので、津軽陣屋、あるいは、このあたりの地名を取って千代ヶ岡陣屋とも呼ばれた。
明治元年(1868年)10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍が、五稜郭を本拠に弁天台場や津軽藩が引き揚げて空塁になっていた千代ヶ岡に兵を配置したが、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助らは壮烈な最期を遂げ、この陣屋は陥落した。

函館市

CHIYOGAOKA CAMP Ruins

The Sendai clan,ordered by the Tokugawa Shogunate in 1808 to guard Hokkaido,built the earthworks in the hilly area stretching from around the present Nakajima Elementary school to Chiyogadai park Baseball Ground,about 130m from east to west and about 150m from north to south.The clan established the main camp here,which directed local camps in Etorofu,and elsewhere.So was the camp started.
In 1855,the syogunate ordered the Tsugaru clan to guard from Otobe to Cape Kamui in the west,and from Hakodate to Cape Esan in the east.Consequently,the Tsugaru clan established a local camp at at Suttsu and took over the main camp above.That’s why this place was called The Tsugaru Camp.Or,taking its name from the place name here,it was also called Chiyogaoka Camp.
Having taken over all of southern Hokkaido,the former feudal army led by Takeaki Enomoto made Goryokaku its headquarters in October 1868,and manned Benten Fort and Chiyogaoka,the latter of which had been deserted since the with drawal of the Tsugaru clan.
However,on May 16 1869,the new governmental army executed a full scale at tack,and the opposing leader Subronosuke Nakajima and others died with tragic bravery.So fell Chiyogaoka Camp.

The City of Hakodate

■やさしい日本語

1808{年(ねん)}、@{幕府(ばくふ)}[1808年{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}]は@{仙台藩(せんだいはん)} [{宮城県(みやぎけん)}にあった{集(あつ)}まり]に@{蝦夷地(えぞち)}[{昔(むかし)}の{北海道(ほっかいどう)}の{名前(なまえ)}]を{守(まも)}るように{言(い)}いました。そのため、@{中島小学校(なかじましょうがっこう)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]の{近(ちか)}くから@{千代台公園野球場(ちよがだいこうえんやきゅうじょう)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]までの{小(ちい)}さい{山(やま)}がたくさんある{場所(ばしょ)}に、{東(ひがし)}から{西(にし)}まで{約(やく)}130m、{南(みなみ)}から{北(きた)}まで{約(やく)}150mの@{土塁(どるい)}[{土(つち)}で{作(つく)}った{壁(かべ)}]を{作(つく)}って、@{陣屋(じんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{軍隊(ぐんたい)}が{集(ある)}まり、{泊(と)}まる{場所(ばしょ)}や、{政治(せいじ)}をする{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}]を{建(た)}てました。これが{最初(さいしょ)}の@{陣屋(じんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{軍隊(ぐんたい)}が{集(ある)}まり、{泊(と)}まる{場所(ばしょ)}や、{政治(せいじ)}をする{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)]です。1855{年(ねん)}、@{幕府(ばくふ)}[1855{年(ねん)}の{日本(にほん)}の{政府(せいふ)}]は@{津軽藩(つがるはん)}[{青森県(あおもりけん)}にあった{集(あつ)}まり]に{西(にし)}の{方(ほう)}は@{乙部(おとべ)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]から@{神威岬(かむいみさき)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]まで、{東(ひがし)}の{方(ほう)}は@{箱館(はこだて)} [{函館(はこだて)}の{古(ふる)}い{書(か)}き{方(かた)}]から@{恵山岬(えさんみさき)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]までを{守(まも)}るように{言(い)}いました。そのため、@{津軽藩(つがるはん)}[{青森県(あおもりけん)}にあった{集(あつ)}まり]は@{寿都(すっつ)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]に@{出張陣屋(しゅっちょうじんや)}[{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}から{離(はな)}れたところにある{陣屋(じんや)}]を{作(つく)}って、ここを@{元陣屋(もとじんや)}[{大切(たいせつ)}な{陣屋(じんや)}]と{決(き)}めました。{人々(ひとびと)}はこの{地域(ちいき)}を@{津軽陣屋(つがるじんや)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]や、@{千代ヶ岡陣屋(ちよおがおかじんや)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]と{呼(よ)}びました。1868{年(ねん)}10{月(がつ)}、@{榎本武揚(えのもとたけあき)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と@{旧幕府軍(きゅうばくふぐん)}[1868年の{日本(にほん)}{政府(せいふ)}の{人(ひと)}たち]が@{北海道(ほっかいどう)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]の{南(みなみ)}の{方(ほう)}を@{支配(しはい)}[{自分(じぶん)}のものにすること]し、@{五稜郭(ごりょうかく)}[{函館(はこだて)}にある、{戦争(せんそう)}のために{作(つく)}った{建物(たてもの)}]を@{拠点(きょてん)}[{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}]にしました。@{千代ヶ岡(ちよがおか)} [{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]には{新(あたら)}しく@{兵(へい)}[{戦(たたか)}う{人(ひと)}]を{置(お)}きました。しかし、1872{年(ねん)}5{月(がつ)}16{日(にち)}、@{新政府軍(しんせいふぐん)}[{日本(にほん)}の{新(あたら)}しい{政府(せいふ)}の{人(ひと)}たち]の{攻撃(こうげき)}で、@{守将(しゅしょう)}[{軍(ぐん)}の{中(なか)}で{一番(いちばん)}{偉(えら)}い {人(ひと)}]である@{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)} [{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]{達(たち)}は{亡(な)}くなって、この@{陣屋(じんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{軍隊(ぐんたい)}が{集(ある)}まり、{泊(と)}まる{場所(ばしょ)}や、{政治(せいじ)}をする{大切(たいせつ)}な{場所(ばしょ)}]は{敵(てき)}のものになりました。