傷心惨目の碑
ショウシンザンモクノヒ
(表)
傷心惨目
撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉
会津残同抱共建
明治十三年
■観光説明板
明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12年(1879年)高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。
函館市
MEMORIAL OF “SHOSHIN ZAMMOKU”
On May 11,1869 (Meiji 2) the fiercest battle of Hakodate War was fought in downtown Hakodate.At that time Koryujj Temple was located at the foot of the slope where it stands now and it was used as a branch of Hakodate Hospital for deserted soldiers of the old Shogunate army.
On this day spearhead force of the new government’s army burst into the temple and killed the sick and wounded in bed,then set fire to the temple.The Aizu clan forces which fought against the new government paid dearly in human cost in this battle.
In 1879 (Meiji 12) Koryuji Temple was moved to its present location and the following year the supporters of the Aizu clan erected this monument in memory of those who were murdered in this attack.
The Chinese characters on the monument read,”Shoshin Zanrmoku” or “mourning an ancient battlefield.”These are the words of Rika,a Chinese literary man of the Tang period (618-906).The characters were traced over the genuine writing of Gakuhi,a faithful retainer of Southern Sung (1127-1278), China.
CITY OF HAKODATE
■追加解説
「岳飛」は南宋の武人で、南宋が金に攻撃された際に、幾多の武功をたてたが、その勢力が拡大することを恐れた宰相に謀殺された。碑文の元となった「古戦場を弔う文」は、戦争の悲惨さを述べ、戦死者の霊を弔うもので、英雄として名を残した岳飛の真蹟を刻むことで、同胞への追悼の表している。
■参考文献
「函館市史資料集」第27集・第46集(函館市史編纂委員会)、「道南の碑」(永田青雲 幻洋社 1996年)、「函館・道南大事典」(国書刊行会 1985年)
1869 年(ねん)5 月(がつ)11 日(にち)、 箱館戦争(はこだてせんそう)[1868 年(ねん)から1869 年(ねん)に 函館(はこだて)で 起(お)こった 戦争(せんそう)]の 最(もっと)も 大(おお)きな 戦(たたか)いがありました。その 時(とき)の 高龍寺(こうりゅうじ)[ 寺(てら)の 名前(なまえ)]はもっと 坂(さか)の 下(した)にありました。 高龍寺(こうりゅうじ)[ 寺(てら)の 名前(なまえ)]は 旧幕府脱走軍(きゅうばくふだっそうぐん)[1853 年(ねん)ころの 日本(にほん)の 政府(せいふ)の 人(ひと)で 函館(はこだて)に 逃(に)げた 人(ひと)たち]の 箱館病院(はこだてびょういん)になっていました。 同(おな)じ 日(ひ)、 新政府軍(しんせいふぐん)[ 日本(にほん)の 新(あたら)しい 政治(せいじ)をする 人(ひと)たち]の 先鋒隊(せんぽうたい)[ 最初(さいしょ)に 行(い)く 人(ひと)たち]が 寺(てら)に 来(き)ました。 傷病兵(しょうびょうへい)[ 傷(きず)や 病気(びょうき)がある 兵士(へいし)]らを 殺(ころ)しました。そして 寺(てら)に 火(ひ)をつけました。 会津遊撃隊(あいづゆうげきたい)[ 福島(ふくしま)の 旧政府脱走軍(きゅうせいふだっそうぐん)の 兵士(へいし)]がたくさん 亡(な)くなりました。
1879 年(ねん)、 高龍寺(こうりゅうじ)[ 寺(てら)の 名前(なまえ)]は 違(ちが)う 場所(ばしょ)にできました。1880 年(ねん)に 昔(むかし)の 会津藩(あいづはん)の 仲間(なかま)がこの 碑(ひ)[ 文字(もじ)が 書(か)いてある 石(いし)]を 建(た)てました。 亡(な)くなった 藩士(はんし)[ 兵士(へいし)]の 供養(くよう)[ 亡(な)くなった 人(ひと)の 幸(しあわ)せを 願(ねが)うこと]をしました。
この 碑(ひ)には「 傷心惨目(しょうしんざんもく)」と 書(か)いてあります。 中国(ちゅうごく)の 唐(とう)の 李華(りか)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。 詩(し)を 書(か)いた 人(ひと)]が 作(つく)った「 古戦場(こせんじょう)を 弔(とむら)う 文(ぶん)」からとりました。 文字(もじ)は 岳飛(がくひ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。 中国(ちゅうごく)の 南宋(なんそう)の 武士(ぶし)]の 文字(もじ)を 写(うつ)しました。