近代彫刻の先駆者中原悌二郎の墓

キンダイチョウコクノセンクシャナカハラテイジロウノハカ

■観光説明板

中原悌二郎は、近代彫塑の夜明けを告げた作家である。始め画家を志したが、荻野守衛・ロダンの作品に感動し彫刻に転じ、明治43年文展に出品、第3回院展では樗牛賞を受け、第5回院展で同人に推薦された。
代表作に「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等がある。「平櫛田中像」は、かのブルーデルをして、「これが彫刻だ」と絶賛され、なかでも「若きカフカス人」は、日本近代彫塑の指針を示す作品であり、荻原守衛、高村光太郎とともに、一本の柱となっている。
中原家は祖父の代より函館にあって、精米業を開き、後父の代になって釧路に移住、雑貨廻船業および漁業を営む。
悌二郎は、明治21年、次男として出生、9歳のとき旭川にある母の弟の養子となる。
札幌中学校在学中、無断出奔、芸術を志す。
苦学と過労により肺結核を発し、33歳の若さで没した。
悌二郎は彫塑に情熱を捧げ、その身を燃やしたが、全作品は11点に過ぎず、期間は10年であり、一瞬の光芒であった。
遺骨は実父忠四郎に抱かれ、当院の中原家の墓に葬られている。
1983年12月 赤光社美術協会

函館市

The Tbmb of Nakahara Teijiro,A Pioneer of Modem Japanese Sculpture

Nakahara Teijiro is a pioneer of modem Japanese sculpture.He originally aspired to be a painter,but after being strongly impressed by the art works of Ogino Morie and Rodin,he started sculpting.He placed some of his sculptures to the Ministy of Education Sponsored Buntenn Exhibition in 1910.After having received the Chogyu Awalds at the third annual Japanese Art Associations Inten Exhibition,he was recommended to become a member of the association at the ffih Inten Exhibition.
His masterpieces includes art works entitled A Figure of IShii Tsuruzo,An Old Beggar,A Young Caucasian,and the sculpture which received as an art ppiece that promised a new dawn of modern Japanese sculpture.He,together wiih Ogino Morie and Takamula Kotaro,formed a distinct style of Japanese fine arts.
Nakaharas glandfather owned a rice-processing business in Hakodate.his family moved to KuShiro where his father started businesses in shipping,trading and fishery.Teijiro was born in 1888 as the second son,and was adopted by his uncle who lived in Asahikawa when he was nine years old.He ran away fom the Sappo Junior High School he attended in order to pursue his dream of becoming an artist.Teijiro died at the age of thirty-three from complication of TB and overwork.
complicationofTBandoverwolk.
Teijiro dedicated his entire life to his art,but left only 11 pieces of sculpture during ten years of his artistic life,Which was like a Spark of passing liglt.
He now rests in the family grave alongside with his biological father,Chujiro.

CITY OF HAKODATE

■やさしい日本語

中原悌二郎(なかはらていじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は、1868年(ねん)から1945年(ねん)の 彫塑(ちょうそ)[ 柔(やわ)らかい 土(つち)や 金属(きんぞく)でつくるもの]を 大(おお)きく 変(か)えた 人(ひと)です。 始(はじ)めは 絵(え)を 描(か)く 人(ひと)になろうとしました。しかし 荻原守衛(おぎわらもりえ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]・ ロダン[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 作品(さくひん)[つくったもの]が 素晴(すば)らしかったので、 彫刻(ちょうこく)[ 石(いし)や 木(き)から 作(つく)るもの]を 作(つく)るようになりました。1910年(ねん) 文部省美術展覧会(もんぶしょうびじゅつてんらんかい)[ 多(おお)くの 人(ひと)に 作品(さくひん)を 見(み)せる 会(かい)]に 彫刻(ちょうこく)を 出(だ)しました。 第(だい) 3 回(かい) 日本美術院展覧会(にほんびじゅつてんらんかい)では 樗牛(ちよぎゆう) 賞(しょう)でした。 第(だい) 5 回(かい) 美術院展覧会(びじゅついんてんらんかい)[ 多(おお)くの 人(ひと)に 作品(さくひん)を 見(み)せる 会(かい)]で 同人(どうじん)[ 良(よ)い 作品(さくひん)を 選(えら)ぶ 人(ひと)]になりました。 中原悌二郎(なかはらていじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 有名(ゆうめい)な 作品(さくひん)は「 石井鶴三像(いしいつるさんぞう)」、「 乞食老人(こじきろうじん)」、「 平櫛田中像(ひらくしたなかぞう)」、「 若(わか)きカフカス 人(じん)」などがあります。「 平櫛田中像(ひらくしたなかぞう)」は、ブルーデル[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。とても 有名(ゆうめい)な、 彫刻(ちょうこく)を 作(つく)る 人(ひと)]が「これが 彫刻(ちょうこく)だ」ととても 褒(ほ)めました。なかでも「 若(わか)きカフカス 人(じん)」は、 日本(にほん)の1868 年(ねん)から1945 年(ねん)の 多(おお)くの 彫刻家(ちょうこくか)の 目標(もくひょう)になる 作品(さくひん)です。 荻原守衛(おぎわらもりえ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]、 高村光太郎(たかむらこうたろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]とともに、 重要(じゅうよう)な 人(ひと)です。 中原悌二郎(なかはらていじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 祖父(そふ)は 函館(はこだて)で 米(こめ)を 売(う)る 店(みせ)を 開(ひら)きました。 中原悌二郎(なかはらていじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 父(ちち)のときに、  釧路(くしろ)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]に 行(い)きました。ものを 船(ふね)で 運(はこ)ぶ 仕事(しごと)と 魚(さかな)をとる 仕事(しごと)をしていました。 中原悌二郎(なかはらていじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は、1876 年(ねん)、 2人目(ふたりめ)の 息子(むすこ)として 生(う)まれました。9 歳(さい)のとき 旭川(あさひかわ)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]にいる 母(はは)の 弟(おとうと)のこどもになりました。 札幌(さっぽろ)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)] 中学校(ちゅうがっこう)の 生徒(せいと)だった 時(とき)、 何(なに)も 言(い)わないで 逃(に)げました。そして 芸術(げいじゅつ)の 仕事(しごと)をやりたいと 思(おも)いました。 頑張(がんば)って 勉強(べんきょう)や 仕事(しごと)をしすぎたことで 肺結核(はいけっかく)[ 肺(はい)の 病気(びょうき)]になりました。33 歳(さい)で 亡(な)くなりました。 中原悌二郎(なかはらていじろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]は 彫塑(ちょうそ)をとても 頑張(がんば)ってつくりました。しかし 全(すべ)ての 作品(さくひん)は11 点(てん)しかありません。 作品(さくひん)を 作(つく)ったのは10 年(ねん)だけでした。 遺骨(いこつ)[ 亡(な)くなった 人(ひと)の 骨(ほね)]は 本当(ほんとう)の 父(ちち)の 中原忠四郎(なかはらちゅうしろう)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]がもらって、 東本願寺函館別院(ひがしほんがんじはこだてべついん)の 中原家(なかはらけ)の 墓(はか)[ 亡(な)くなった 人(ひと)のための 場所(ばしょ)]に 入(はい)っています。1983 年(ねん)12 月(がつ) 東本願寺函館別院(ひがしほんがんじはこだてべついん)