河野加賀守政通の供養碑

コウノカガノカミマサミチノクヨウヒ

hako102

■碑文

(表)
河野加賀守政通(こうのかがのかみまさみち)公の供養碑

河野政通公は享徳三年(一四五四)南部大畑より渡来し、現在の函館病院附近に館を築き函館一帯の地を治めた。
後、アイヌ等を和人の間に争を生じ館は陥ち政通公も戦歿す。ここの供養碑は宝暦三年(一七五三)時の亀田奉行、政通公の祭祀の無きを嘆き弥生小学校辺にありし称名寺に建立せしが、後称名寺の移転と共に現在地に至りしものである。

(裏)
平成元年七月吉日建之

■観光説明板

河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。
永正9年(1512年)、子季通(すえみち)の時アイヌに攻められ館は陥ちた。
この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。

函館市

KONO KAGANOKAMI MASAMICHI MEMORIAL

Masamichi Kohno,Originally from Iyo in presant-day Ehime Prefecture,came to Hakodate in 1454 and build a large mansion on Motoizaka hill at the foot of Mt.Hakodate.Although the Ainu people called this area Usukeshi,an edge of a bay,the mansion tooked like a box giving the area its name Hakodate,a box house.Up until 1869 Chinese charactors 箱館(box house) for Hakodate was used.In the time of his successor-son Suemichi,in 1512,the mansion was attaced by Ainu and fell to them.
The monument was erected in 1753 by kameda magistrate of Matsumae clan.The front engrave reads 「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」 and an epigraph is engraved on the back.

■追加解説

これの供養碑は、亀田奉行酒井喜澄が、1753年(宝暦3年)4月8日、箱館の館主河野政通を供養して建立したものである。

■やさしい日本語

{河野政通(こうのまさみち)}は1454{年(ねん)}に@{伊予(いよ)}[{今(いま)}の{愛媛(えひめ)}{県(けん)}]から{函館(はこだて)}に{来(き)}ました。{今(いま)}の{基(もとい)}{坂(ざか)}の{上(うえ)}に@{館(たて)}[{建物(たてもの)}]をつくりました。この{辺(あたり)}はアイヌ{語(ご)}で ウスケシ({海(うみ)}の{端(はし)}という{意味(いみ)})と{言(い)}います。その{館(たて)}が{箱(はこ)}の{形(かたち)}をしていたので、ハコダテという{名前(なまえ)}になりました。1869{年(ねん)}までは「{箱館(はこだて)}」という{漢字(かんじ)}でした。({今(いま)}は「{函館(はこだて)}」です。)
1512{年(ねん)}、アイヌが{攻(せ)}めてきて、{季通(すえみち)}は {負(ま)}けました。
この{碑(ひ)}は、1753{年(ねん)}に@{松前(まつまえ)}{藩(はん)}[{今(いま)}の{松前(まつまえ)}{町(ちょう)}]の@{亀田(かめだ)}{奉公(ぶぎょう)}[{函館(はこだて)}の{政治(せいじ)}をしていた{人(ひと)}]がつくりました。{表(おもて)}に「{捐館(えんかん)}{高峰(こうほう)}{院殿(いんでん)}{加屋(かや)}{凌雲(りょううん)}{大居士(だいごじ)} {神儀(しんぎ)}」と{書(か)}いていて、{裏(うら)}には{碑文(ひぶん)}があります。

大エリア 函館市
小エリア 西部地区
所在地函館市船見町18(称名寺内)
制作時代
主題時代
カテゴリ やさしい日本語(観光), 歴史, 碑・像