咬菜園跡

コウサイエンアト

■観光説明板

安政4年(1857年)名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪(約3770㎡)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植したので四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園として親しんだ。
咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者、武田斐三郎が名付親である。
明治2年(1869年)箱館戦争時、追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本軍(旧幕府脱走軍)総裁榎本武揚は同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。
箱館奉行並中鳥三郎助は、俳人としても知られ、数多くの秀作があるが、「ほととぎす われも血を吐く思い哉」「われもまた 死士と呼ばれん白牡丹」の辞世の句などはこの時残したものである。
同年5月16日、三郎助は五稜郭の前線基地千代ヶ岡陣屋(現中島町)で最後まで降伏を拒み、長男恒太郎(22歳)次男英次郎(19歳)ともども壮烈な戦死を遂げた。

函館市

Remains of Kosaien

In 1857,Shinzaburo Sakaiya,who was famous as a charitable headman of a village,acquired a site (3,770 square meters) sold by the Hakodate magistracy and built himself a hermitage,and planted well-known trees and flowers from various localities.People considered it the finest garden in Hakodate and enjoyed the seasonal flowers.
The place “Kosai”,meaning “plain food”,was named by Ayazaburo Takeda,who studied Western sciences in the Dutch language and designed and supervised the Goryokaku.In 1869 when the Imperial Army set out from Shinagawa Port during the Hakodate battle,the governor of the Shogunate Army Takeaki Enomoto and his 600 men spent their last night before their death in Kosaien on March 14.Saburosuke Nakajima who came from the Hakodate Hakodate magistracy is famous as a haiku poet,wrote a haiku about that night.
On May 16 1869,Saburosuke,who was guarding the Chiyogaoka Garrison (now Nakajimacho), died together with his sons Kotaro (aged 22) and Eitaro (aged 19).

The city of Hakodate

■やさしい日本語

1857{年(ねん)}に@{名主(なぬし)}[{村(むら)}の{政治(せいじ)}をする{人(ひと)}]で@{慈善家(じぜんか)}[{困(こま)}っている{人(ひと)}を{援助(えんじょ)}する{人(ひと)}]として{有名(ゆうめい)}だった@{堺屋新三郎(さかいやしんざぶろう)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が、@{箱館奉行(はこだてぶぎょう)}[{昔(むかし)}の{函館(はこだて)}で{働(はたら)}いた{人(ひと)}]から{約(やく)}3770㎡の{場所(ばしょ)}を{買(か)}って@{庵(いおり)}[{小(ちい)}さな{家(いえ)}]を{作(つく)}りました。いろいろな{場所(ばしょ)}の{有名(ゆうめい)}な{花(はな)}や{木(き)}を{植(う)}えたので、4つの{季節(きせつ)}それぞれのきれいな{花(はな)}が{咲(さ)}きます。{住(す)}んでいた{人達(ひとたち)}は@{箱館(はこだて)}[{函館(はこだて)}の{古(ふる)}い{書(か)}き{方(かた)}]で{一番(いちばん)}の{庭(にわ)}として{大切(たいせつ)}にしました。
{咬菜(こうさい)}とは{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{料理(りょうり)}しか{食(た)}べないことです。@{五稜郭(ごりょうかく)}[{函館(はこだて)}にある、{戦争(せんそう)}のために{作(つく)}った{建物(たてもの)}]を{作(つく)}る{方法(ほうほう)}を{考(かんが)}えた@{蘭学者(らんがくしゃ)}[オランダ{語(ご)}で{西洋(せいよう)}のことを{学(まな)}んだ{人(ひと)}]の@{武田斐三郎(たけだあやさぶろう)}[ {人(ひと)}の{名前(なまえ)}]が{名前(なまえ)}をつけました。
1869{年(ねん)}の@{箱館戦争(はこだてせんそう)}[1868{年(ねん)}から1869{年(ねん)}に{函館(はこだて)}で{起(お)}こった{戦争(せんそう)}]のときに、@{新政府(しんせいふ)}[1889{年(ねん)}から1891{年(ねん)}の新しい{日本(にほん)}の{政治(せいじ)}をする人たち]は{逃(に)}げている@{榎本軍(えのもとぐん)}[{新政府(しんせいふ)}と{戦(たたか)}った{人達(ひとたち)}]を{追(お)}いかけて{殺(ころ)}すと{決(き)}めました。そして、いる@{榎本軍(えのもとぐん)}[{新政府(しんせいふ)}と{戦(たたか)}った{人達(ひとたち)}]@{総裁(そうさい)}[{軍(ぐん)}の{中(なか)}で{一番偉(いちばんえら)}い{人(ひと)}]の@{榎本武揚(えのもとたけあき)}[ {人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は@{新政府(しんせいふ)}[1889{年(ねん)}から1891{年(ねん)}の新しい{日本(にほん)}の{政治(せいじ)}をする人たち]の@{軍艦(ぐんかん)}[{戦(たたか)}うための{船(ふね)}]が@{品川(しながわ)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]を{出(で)}て、@{函館(はこだて)}[{場所(ばしょ)}の{名前(なまえ)}]に{向(む)}かうと{知(し)}りました。3{月(がつ)}{14日 (じゅうよっか)}に@{幹部(かんぶ)}[{大事(だいじ)}な{仕事(しごと)}をする{人(ひと)}]6{人(にん)}と{一緒(いっしょ)}に、{咬菜園(こうさいえん)}で{最後(さいご)}の{夜(よる)}を{楽(たの)}しみました。
@{箱館奉行並(はこだてぶぎょうなみ)}[{仕事(しごと)}の{名前(なまえ)}]の@{中鳥三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は、@{俳句(はいく)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{文学(ぶんがく)}]をつくる{人(ひと)}としても{有名(ゆうめい)}です。たくさんの{良(よ)}い@{俳句(はいく)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{文学(ぶんがく)}]があります。「ほととぎす われも{血(ち)}を{吐(は)}く{思(おも)}い{哉(なり)}」「われもまた{死士(しし)}と{呼(よ)}ばれん{白牡丹(はくぼたん)}」などの{亡(な)}くなる{前(まえ)}の@{俳句(はいく)}[{日本(にほん)}に{昔(むかし)}からある{文学(ぶんがく)}]はこの{時(とき)}に{残(のこ)}したものです。
5{月(がつ)}16{日(にち)}に@{中鳥三郎助(なかじまさぶろうすけ)}[{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]は@{五稜郭(ごりょうかく)}[{函館(はこだて)}にある、{戦争(せんそう)}のために{作(つく)}った{建物(たてもの)}]の{一番前(いちばんまえ)}にある@{千代ヶ岡(ちよがおか)}[{今(いま)}の{中島町(なかじまちょう)}]@{陣屋(じんや)}[{戦争(せんそう)}の{時(とき)}に{戦(たたか)}う{人(ひと)}が{泊(と)}まったり、{政治(せいじ)}をしたりする{重要(じゅうよう)}な{場所(ばしょ)}]から{最後(さいご)}まで{逃(に)}げませんでした。@{長男(ちょうなん)}[{息子(むすこ)}のなかで1{番目(ばんめ)}に{生(う)}まれた{子(こ)}]の@{恒太郎(こうたろう)}[22{歳(さい)}、 {人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と@{次男(じなん)}[{息子(むすこ)}のなかで2{番目(ばんめ)}に{生(う)}まれた{子(こ)}]の@{英次郎(えいじろう)}[19{歳(さい)}、{人(ひと)}の{名前(なまえ)}]と{一緒(いっしょ)}に{亡(な)}くなりました。
{函館市(はこだてし)}