立待岬

タチマチミサキ

■観光説明板

この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に因むという。
18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。
現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。
近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。

函館市

CAPE TACHIMACHI (“YOKO-USHI” ORIGlNAL AlNU PLACE NAME)

TACHIMACHI is derived from the Ainu name for this cape “YOKOUSHI.”YOKOUSHI means “the place where people stand and wait to catch fish.”The present Japanese name is thus a translation of the Ainu words.YOKO (to stand and wait for prey to come) and USHI (place), thus.the Japanese “Tachi Machi.”
At the end of the 18th century when Ezochi (Hokkaido) became a place under the direct control of the Tokugawa Shogunate,the shogunate built a fort in this area.During World War Ⅱ,citizens were prohibited to enter this mountain area because of the Fortified Zone Law.
Currently,many tourists visit here as a scenic spot to command a great view of the Tsugaru Straits.The poem monument of Yosano Hiroshi & Akiko and the tomb of the Ishikawa Takuboku family can be found very near here.

                                                            CITY OF HAKODATE

■やさしい日本語

立待岬(たちまちみさき)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)]は、 @アイヌ{語(ご)}[ 北海道(ほっかいどう)に 先(さき)に 住(す)んでいた 人(ひと)たちのことば]のヨコウシという 言葉(ことば)から 名前(なまえ)が 付(つ)きました。ヨコウシは、「 待(ま)つ 場所(ばしょ)、ここで 魚(さかな)をとるために 立(た)って 待(ま)つ 場所(ばしょ)」という 意味(いみ)です。
1800 年(ねん)くらいに 政府(せいふ)が 蝦夷地(えぞち)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)。 今(いま)の 北海道(ほっかいどう)]の 政治(せいじ)をするようになりました。そして、土地(とち)を 守(まも)るために 大砲(たいほう)[ 大(おお)きい 銃(じゅう)] を 置(お)く 台(だい)を 作(つく)りました。 今(いま)はありません。
また、 第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)[1939 年(ねん)から1945 年(ねん)に 日本(にほん)などとアメリカなどが 戦(たたか)った 戦(たたか)い。World WarⅡ]の 時(とき)には  @{要塞地帯法(ようさいちたいほう)}[ 国(くに)の 土地(とち)を 守(まも)る 法律(ほうりつ)]のため、 住(す)んでいる 人(ひと)は 入(はい)ることができませんでした。 今(いま)は、 津軽海峡(つがるかいきょう)[ 北海道(ほっかいどう)と 青森県(あおもりけん)の 間(あいだ)にある 海(うみ)]が 見(み)えるきれいな 場所(ばしょ)として、たくさんの 人(ひと)が 来(き)ています。
近(ちか)くには、 石川啄木(いしかわたくぼく)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)。 日本(にほん)の 有名(ゆうめい)な 詩(し)をつくる 人(ひと)]の 家族(かぞく)の 墓(はか)や、 与謝野寛・晶子(よさのひろし・あきこ)[ 人(ひと)の 名前(なまえ)]の 和歌(わか)[ 昔(むかし)の 日本(にほん)の 短(みじか)い 歌(うた)]が 書(か)いてある 石(いし)もあります。