中島三郎助父子最後の地(なかじまさぶろうすけさいごのち)

■やさしい日本語

中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)[人(ひと)の名前(なまえ)]は、浦賀(うらが)[場所(ばしょ)の名前(なまえ)]で、奉行(ぶぎょう)[たくさんの仕事(しごと)をする場所(ばしょ)] 配下(はいか)[浦賀奉行(うらがぶぎょう)の影響(えいきょう)が及(およ)ぶ範囲(はんい)]として{働(はたら)}きました。しかし、1855年(ねん)に 幕府(ばくふ)[侍(さむらい)が中心(ちゅうしん)の政治(せいじ)]が 作(つく)った 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)[{海軍(かいぐん)}の 偉(えら)い 人(ひと)を 育(そだ)てる 場所(ばしょ)]のはじめの 生徒(せいと)になりました。1858年(ねん)には 軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)[ 築地(つきじ)にある 海軍(かいぐん)の 偉(えら)い 人(ひと)を 育(そだ)てる 場所(ばしょ)]の{先生(せんせい)}になりました。 明治維新(めいじいしん)[1831年(ねん)から 1845年(ねん)に 国(くに)の 法律(ほうりつ)などを 大(おお)きく 変(か)えたこと]のあと、1868年(ねん)10月(がつ)に{中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)}は 榎本武揚(えのもとたけあき)[人(ひと)の名前(なまえ)]と 一緒(いっしょ)に{動(うご)}きました。8個(こ)の{船(ふね)}で{北海道(ほっかいどう)}に{来(き)}ました。
箱館戦争(はこだてせんそう)[ 函館(はこだて)で 起(お)きた 戦争(せんそう)]では、千代ヶ岡陣屋(ちよがおかじんや)[ 場所(ばしょ)の 名前(なまえ)] の 隊(たい)の 偉(えら)い 人(ひと)として、昔(むかし)の{仲間(なかま)}と 一緒(いっしょ)に{守(まも)}りました。
新(あたら)しい 幕府(ばくふ)は 箱館(はこだて)[ 昔(むかし)の 函館(はこだて)]を{取(と)}りました。そして、負(ま)けを{認(みと)}めるように{言(い)}いました。しかし、中島(なかじま)は{負(ま)}けを{認(みと)}めませんでした。1869年(ねん)の5月(がつ)16日(にち)に{二人(ふたり)}の{息子(むすこ)}と{一緒(いっしょ)}に{死(し)}にました。「ほととぎす われも{血(ち)}を{吐(は)}く   思(おも)い{哉(かな)}」という{言葉(ことば)}を{残(のこ)}しました。
1931年(ねん)に、中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)と{息子(むすこ)}を{記念(きねん)}して、千代ヶ岡陣屋(ちよがおかじんや)のあったところが 中島町(なかじまちょう)[ 町(まち)の 名前(なまえ)]になりました。