巡査中原君紀功碑
ジュンサナカハラクンキコウヒ
嗚呼此中原君紀功之碑也君諱宗三郎会津藩藩士敦俊之第三子母新妻氏君幼遭逢国難随母匿民家備嘗寒苦既而誾家移陸之三戸及父母俊與伯兄敦義仲兄重直共来北海道函館為四等巡査兼倹役委員以称共職受一等賞賜四拾金以積年勤労進至一等巡査転警部補代理熊石分署長心得適□僻在人民長之至父子兄弟不相顧無収其屍者於是君躬自擔其屍火之有感染者則諭其父兄人之於避病院以防其蔓
延適君罹患疾猶歓粥服薬以巡視其罹疫者家不及腱者連夜人皆称其用心之周遂感其疾気致病不起事年僅二十九実明治十九年九月四日也而其死也蓋郷男女識与不□□不哀傷焉官嘉其死職務賜祭祀料三拾金扶肋料百金丕君病革謂妻某氏日余死矣又問友某日長崎之支那人暴徒之事如何某答日勿憂即瞑矣蓋恕其処□死得其富也噫嘻君可謂生尽其職死憂其□者豈易□哉村人相謀碑於門昌庵函館支庁長時任君義其挙損金替立之佐野某児島某以予同藩人而略始其為人属予紀其功予且可以不文辞其清我乃其書其由以与之
北海道庁属 大庭 機 撰
羽沢 侃 書
門昌庵の境内には今も柏巖禅師の墓がありますが、その墓の左手、逆川の川淵に巡査中原君紀功碑があります。石碑の寸法は、高さ150cm、横60cm、奥行き30cmでそのそばに中原巡査の墓がありその碑面には
明治十九年(1886)九月五日 義孝院中山良原居士 有志者建焉
となっています。
さかのぼって、明治十五年(1882)は、熊石村戸長役場と相沼内・泊川戸長役場が合併し、熊石村外二村戸長役場となった年であります。これによって戸長は熊石村に常駐するようになり、最初は妙選寺下の「ハネ出し」の建物を利用し、役場としました。
この時代は、三県一局時代といわれ、道南は函館県となっていました。警察署も明治十五年に江差警察署が置かれ、明治十六年(1883)は江差警察署乙部分署が設置され、その出張所として相沼内と熊石に巡査出張所が設置されたのです。
さらに、明治十七年(1884)二月に江差警察署熊石分署が設置され、その初代署長として中原宗三郎が赴任し、独立機関としての建物も新設されました。
中原警部補代理は明治十九年(1886)突然この地方に襲来流行したコレラの防疫と予防に全力をふるって務め、ついにその感染を受け九月四日殉職死亡し、本道警察官の鑑として「北海道警察史」にも載せられている人です。
明治18年長崎に端を発したコレラの流行は北海道へも広がり熊石村の者が江差で感染すると、村内でも患者が発生しました。分署長心得の中原警部補代理は、部下巡査を督励して患者の避病院移送から防疫、予防等昼夜を問わず活躍したが、自らも感染し僅か十七時間で殉職しました。時に二十九歳でした。
村民は中原署長の功徳を讃え顕彰の碑と墓碑を建立しています。碑文によれば、中原署長は会津藩士中原敦俊の三男で、会津戦争の際は母と共に民家に隠れ、後父に従って斗南藩として三戸に移り函館に渡って巡査になっています。函館での勤務成績は一位で四等巡査から一等巡査に昇進し、警部補代理、熊石分署長心得として部下と共に熊石に在勤中、たまたま発生した伝染病コレラの大流行に身命を賭して活躍し、ついに九月四日二十九歳で殉職しました。
その行動は村民は勿論、世の賞賛追憶の的となり、函館支庁時任為基が発起人となり村内有志と協議して顕彰することになり、顕彰費は佐野甚右衛門と児島俊庵が拠出し、撰文は旧会津藩士で同郷の大庭 機、書は羽澤 侃が担当しました。
なお、墓碑の裏面は、発起人 佐野甚右衛門 佐野四右衛門 荒井篤治 白井利信 荒井幸作 児島俊庵
周旋人 佐野又四郎 菊井成次郎 加藤浜三 大坂梅太郎 となっています。
この発起人中、佐野四右衛門 は佐野屋権次郎の子孫、佐野甚右衛門はその傍系、白井利信は熊石村役場戸長 荒井幸作は熊石村出身の道会議員です。
2007『熊石史実年表』八雲町編